織田庄(読み)おたのしよう

日本歴史地名大系 「織田庄」の解説

織田庄
おたのしよう

織田つるぎ神社を中心に、東は丹生山地東端、西は日本海に達する広大な荘園で、荘域は現織田町・朝日あさひ町・宮崎みやざき村・越前えちぜん町・鯖江市に及ぶ。「津田歴代記」(劔神社文書)は、平重盛が「三千八百八町歩」を劔神社に寄進したのに始まるとするが不詳で、確実な史料では、建保六年(一二一八)越前国留守所下文(妙法院文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、後鳥羽天皇の生母七条院(藤原殖子)の院庁下文および越前国司庁宣により、女院の御願寺である歓喜寿院領として四至を定めて示を打ち、勅院事・恒例臨時大小国役などの雑役が免除されていることがわかる。さらに安貞二年(一二二八)八月の七条院処分目録(東寺百合文書)によれば、七条院より修明門院(藤原重子)に譲渡されている。この間の事情は康永三年(一三四四)七月日付の無品親王庁解(妙法院文書)に、

<資料は省略されています>

とある。


織田庄
おりたのしよう

現美浜町の北田きただ佐田さた太田おおた山上やまがみ辺りに比定される山門(延暦寺)系寺院領で、「華頂要略」に散見する。建暦三年(一二一三)四月の天台座主慈円配分状に「熾盛光堂 長日熾盛光行法 (中略)已上用途米百廿四石八斗織田庄」とあり、青蓮しようれん(現京都市東山区)の本堂熾盛光しじようこう堂用途料所として荘名がみえ、さらに「此中織田庄者、本半不輸之地也、而可為一円庄之由、賜院宣、其分米三百余石歟云々」とあって、本来半不輸の地であったが、院宣により一円荘となったことが知られる。貞応元年(一二二二)六月日付の慈円置文にも「可被召御年貢庄々事」として「織田庄若狭国 御年貢能米三百石京定、庄器 夏物少々糸百両、綿二百両、慥可進歟、已上除寺用定」と記され、置文冒頭の荘名列挙個所では「オリタ」の訓が付されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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