山東(読み)サントウ

デジタル大辞泉 「山東」の意味・読み・例文・類語

さんとう【山東】[地名]

中国北東部の省。太行山脈の東の意で、泰山山脈と山東半島を含む地域。省都、済南。落花生・小麦・綿・タバコなどを産する。人口、9248万(2005)。シャントン
中華人民共和国航空母艦遼寧を参考にしつつ建造した初の国産空母で、2019年12月就役。

さんとう【山東】[姓氏・号]

姓氏・号の一。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「山東」の意味・読み・例文・類語

さん‐とう【山東】

  1. [ 一 ] 中国の華山以東の地。
  2. [ 二 ] 中国、河南省西部の崤山(こうざん)・函谷関(かんこくかん)以東の地。転じて、戦国時代の斉・楚・燕・韓・魏・趙六国の総称。〔文明本節用集(室町中)〕 〔戦国策‐趙策・武霊王〕
  3. [ 三 ] 中国、太行山以東をいう。〔史記‐晉世家〕
  4. [ 四 ]さんとうしょう(山東省)」の略。
  5. [ 五 ] 日本の関東のこと。
    1. [初出の実例]「親書読罷遽還家、戎馬山東路転」(出典:蕉堅藁(1403)送列侍者)

さんとう【山東】

  1. 江戸後期の戯作者の号の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「山東」の解説

山東
さんとう

南北朝期からみえる日向国内の地域呼称。主として鰐塚わにつか山地から東側の地域をさし、日向灘沿岸部では加江田かえだ(現宮崎市)以北の地域をよぶ。島津氏久譜(旧記雑録)にみえる南北朝期初頭に南朝方に属した肝付兼重三俣高みまたたか(現高城町)に居住した時に「山東・穆佐・高城」を確保していたという記載が時期的には早いが、永和二年(一三七六)一〇月二四日の今川了俊事書案(禰寝文書)に島津氏と九州探題今川了俊が争った際、了俊が「日向国山東」の国人を九州探題方の国人一揆へ組織しようとしたとあるのが文書としての初見である。康暦元年(一三七九)とみられる閏四月三日の今川了俊書状案(同文書)によると、都城合戦で島津氏久と対峙しつつある了俊は山東の国人衆に自身の指示を伝達するように一揆中に伝え、国人衆が現地に派遣された今川満範に同行することを求めている。同二年とみられる一〇月一六日の今川満範書状写(同文書)では、都城合戦に加わる山東の伊東勢と一揆中が区別されており、永徳元年(一三八一)とみられる六月一七日の名和慈冬書状写(同文書)には「山東伊東・土持の勢」とみえる。さらに年未詳六月二九日の名和慈冬書状(同文書)には大隅の禰寝氏が山東勢および一揆勢力と連携することが記されており、山東勢とは伊東氏・土持氏らを中心とした勢力であった。

応永元年(一三九四)島津元久の軍勢は都城に向かい、野々美谷ののみたに(現都城市)を確保する相良氏を攻めるとともに今川氏と一揆勢を退け、今川貞兼は山東に退去して曾井そい(現宮崎市)に陣を構えるに至った(「島津元久譜」旧記雑録、「西藩野史」)。同二年とみられる九月一五日の安楽清綱書状(禰寝文書)には、今川了俊に与力した勢力が山東で伊東下野太郎を味方にすれば全体が統合されると記されており、伊東氏の動向が山東の勢力図を左右するに至っている。一方、探題方の国人の勢力が衰えるなか、同三年一一月七日に島津元久は山東に闕所が出しだい、鹿屋周防介に三〇町を給分として宛行うことを約束している(「島津元久宛行状」旧記雑録)。当時、島津氏の勢力拡張が進み、同四年島津伊久が薩摩国入来いりき清色きよしき(現鹿児島県入来町)の渋谷氏を攻撃するにあたっては、山東から伊東・土持・宮崎・跡江・木脇・清武・曾井・佐々・宇津・岡富・県・盛長・八代・財部・飯田・石塚・岩千野・白糸・綾・池尻・穆佐・加江田諸氏の軍勢が加わっており、山東は鰐塚山地以北であがた(現延岡市)に至る地域をさす呼称となっている(「応永記」「島津伊久譜」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山東」の意味・わかりやすい解説

山東(省)
さんとう / シャントン

中国、華北地区東部沿岸の省。略称は魯(ろ)。面積15万6700平方キロメートル、人口8975万4623(2000)。省都は北西部の済南(さいなん/チーナン)市で、そのほか青島(チンタオ)、淄博(しはく/ツーポー)など17地区級市があり、それらのなかに31県級市、61県を含む(2001現在)。

 西部は黄河(こうが/ホワンホー)下流の広い沖積平野で、華北(かほく/ホワペイ)平原の一部をなす。黄河は北西部を北東流し渤海(ぼっかい/ポーハイ)に注ぐが、古来、何度も河道を変えたため、長い堤防状の旧河道が発達する。また、魯運河すなわち大運河が北上し、南には南陽湖、独山(どくざん)湖、微山(びざん)湖など一連の湖がある。中部は泰(たい)山、沂(ぎ)山、蒙(もう)山などの魯中山地で標高は平均500メートル、最高峰泰山は1524メートルである。小清河(しょうせいが)、泗河(しが)、沂河などの水源地でもある。石灰岩が覆うため、頂上の平坦(へいたん)な山地や済南の突(ほうとつ)泉などのカルスト泉がみられる。東部は山東(膠東(こうとう))半島で北東に延び、渤海と黄河を分ける。標高500メートル以下の起伏の緩やかな丘陵が続き、山間盆地も多い。海岸線は複雑で湾が発達する。西部は夏高温、冬寒冷で降水量がやや少なく、春は乾燥傾向が強い。中部、東部は比較的温暖湿潤で、とくに半島南部は温和な海洋性気候を示し、保養地もある。

 農業はほとんどが小麦、コウリャンを柱にした二年三作制である。黄河の旧河道ではラッカセイや大豆の一年一作制もみられる。商品作物はワタ、タバコが主である。ワタは西部の徳州(とくしゅう/トーチョウ)、聊城(りょうじょう/リヤオチョン)市などが黄河流域ワタ作地帯の主産地である。タバコは益都(えきと)が栽培中心地で、河南(かなん/ホーナン)省に次ぐ生産量を誇る。東部の山間盆地では柞蚕(さくさん)による繭(まゆ)生産やナシ、リンゴなどの果樹栽培も盛んである。ただ、西部の平原部では、冠水、土壌のアルカリ、塩類土化や干害を受けやすいため、堤防工事や土壌改良が絶えず行われている。沿岸部では漁業や製塩が活発で、青島、煙台(えんだい/イエンタイ)など良港が多い。淄博や棗荘(そうそう/ツァオチュワン)では炭田が分布し、粘結性炭が製鉄に利用される。金嶺鎮(きんれいちん)、即墨(そくぼく)などの鉄、招遠(しょうえん)の金のほか、ボーキサイトなど鉱物資源は多い。淄博の陶磁器、ガラス、済南の刺しゅうなどの伝統的手工業や在来軽工業に加え、青島、済南、淄博などでは、鉄鋼、機械などの近代工業が発達している。

 春秋時代には魯(ろ)や斉(せい)など、戦国時代には斉や楚(そ)などに属し、古くから開発された。金代に初めて「山東」の名が使われ、東路、西路が置かれた。清(しん)代には山東省になったが、1898年にドイツが膠州(こうしゅう/チヤオチョウ)湾を租借、のち日本が占領し、半植民地化の直接の舞台となった。京滬(けいこ)、膠済(こうさい)鉄道を基礎に支線や自動車道が四通八達し、航路も開けている。

[駒井正一]


山東(滋賀県)
さんとう

滋賀県北東部、坂田郡にあった旧町名(山東町(ちょう))。現在は米原(まいばら)市の中部を占める地域。旧山東町は、1955年(昭和30)柏原(かしわばら)、東黒田、大原の3村が合併して成立。2005年(平成17)伊吹(いぶき)、米原(まいはら)の2町と合併して米原市となった。旧町名は、坂田郡を東西に分けていた横山の東に位置することによる。中央部を天野川、北部を姉川が流れる関ヶ原地峡部に位置し、北は伊吹山(いぶきやま)、南は鈴鹿(すずか)山脈、西は横山に囲まれた農山村。古代から東西交通の要地として重要視され、近世には中山道(なかせんどう)が通じ、伊吹艾(もぐさ)でも有名な柏原宿が繁栄した。現在も北から国道365号、JR東海道本線、国道21号、名神高速道路が通じる。特別天然記念物に長岡のゲンジボタルおよびその発生地、国指定史跡に、1332年(元弘2)この地で斬首(ざんしゅ)された南朝方の臣北畠具行(きたばたけともゆき)の墓、北近江(おうみ)の守護京極家の墓所(清滝寺)がある。

[高橋誠一]

『『山東町史』全3巻(1986~1991・山東町)』


山東(兵庫県)
さんとう

兵庫県東部、朝来郡(あさごぐん)にあった旧町名(山東町(ちょう))。現在は朝来市の東部を占める一地区。三方を山に囲まれた山東盆地にあり、地名もそれに由来する。旧山東町は1954年(昭和29)梁瀬(やなせ)町と粟鹿(あわが)、与布土(ようど)の2村が合併して成立。2005年(平成17)朝来、生野(いくの)、和田山(わだやま)の3町と合併して市制施行、朝来市となる。西流する与布土川の沖積低地に水田が分布する。古くから絹織物、酒造業が発達し、JR山陰本線、国道9号、312号、427号が通じる交通の要地であることから、近年工業誘致に成功した。メリヤス織のグンゼ(株)と関連工場が多い。朝来群山県立自然公園の主峰、粟鹿山(962メートル)は眺望に優れ、山麓(さんろく)に県立「青年の山」、粟鹿神社がある。

[二木敏篤]

『『山東町誌』全3冊(1984~1992・山東町)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山東」の意味・わかりやすい解説

山東
さんとう

滋賀県北東部,米原市中南部の旧町域。伊吹山地の南部,鈴鹿山脈の北部に位置する。 1955年東黒田村,柏原村,大原村の3村が合体し町制。 2005年伊吹町,米原町と合体して米原市となった。中心地区の柏原は江戸時代中山道の宿場町として発達した。中世,京極氏の居住地で,清滝寺京極家墓所があり,北畠具行の墓とともに国の史跡に指定。米作,林業が主で,伊吹もぐさを特産。天野川橋一帯は国の特別天然記念物「長岡のゲンジボタルおよびその発生地」として知られる。長岡は伊吹山への登山基地。

山東
さんとう

兵庫県中部,朝来市東部の旧町域。円山川の支流粟鹿川流域にあり,北東は京都府に接する。 1954年梁瀬町,粟鹿村,与布土村が合体して発足。町名は合併前の3町村が古くから山東三村と呼ばれていたことによる。 2005年生野町,和田山町,朝来町の3町と合体して朝来市となった。中心集落の梁瀬は京街道,丹波街道が交わる交通の要地で,古くから織物業,酒造業が発達。ほかにメリヤス工業などがある。粟鹿はソバの産地。周辺では酪農が行なわれる。南部は朝来群山県立自然公園に属する。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「山東」の意味・わかりやすい解説

山東 (さんとう)
Shān dōng

中国本土の北部を東西に分け,山西と対照させて用いる語。その基準となる山は,古くから華山(陝西省),崤山(こうざん)(河南省)と太行山(太行山脈)の三つがある。戦国時代には崤山が秦と六国との境界だったので,その東を秦の方から山東といった。漢代では華山を東西の境界とするのが普通だったらしい。太行山が基準とされたのも古いが,その山の東という意味で今日の山東省が成立したのは明代からである。
執筆者:


山東(兵庫) (さんとう)


山東(滋賀) (さんとう)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山東の言及

【柏原宿】より

…中世では東山道の,近世では中山道の宿駅名で,現在の滋賀県坂田郡山東町柏原にあたる。伊吹山地と鈴鹿山脈との地峡部にあり,東国に抜ける際の不破関の手前の宿駅であることから,軍事・交通上の要所であった。…

※「山東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android