近世兵法学の一流派。流祖は山鹿素行(そこう)。素行は、1636年(寛永13)15歳のとき、北条氏長(うじなが)、小幡景憲(おばたかげのり)に入門して甲州(こうしゅう)流を学び、42年、21歳、景憲から兵法印可(いんか)と同添状(そえじょう)を授与され、素行軒と称した。やがて兵法学者としての名声も高まり、諸大名に出講するかたわら、51年(慶安4)『兵法神武雄備集(へいほうしんぶゆうびしゅう)』5巻を著した。翌52年播(ばん)州赤穂(あこう)藩主浅野長直(ながなお)に仕え、その在職8年余に著述活動を展開し、武士道と兵法との融合を図り『武教要録』などの大著を発表し、山鹿流武学をほぼ確立した。その学統は、素行の血縁である平戸系・津軽系を中心に全国に広がり、幕末には、山鹿素水(そすい)・窪田清音(くぼたすがね)・小原鉄心(おばらてっしん)、吉田松陰(しょういん)、宮部鼎蔵(ていぞう)らを輩出した。
[渡邉一郎]
…北条流において軍学の体系は完成したが,西洋のように政治学としての位置づけはなく,個人の道徳としての精神主義を濃くしていったのである。氏長の弟子山鹿素行は〈山鹿流〉を唱えて軍学に儒学の精神を合わせ,武士の道徳〈士道〉を完成させた。その後,長沼流,楠流,越後流など多くの流派が生まれたが,用兵術としての軍学が無用となった時代において軍学は個人の修養が強調され,戦術などは源平以来の合戦をなぞらえるにすぎなかった。…
… しかし兵法の諸流派が喧伝されるようになったのは幕藩体制下軍学(兵学)が興隆してからである。軍学の主流は武田氏の遺臣と称する小幡景憲が創始した甲州流軍学と考えてよいであろうが,この門下から北条氏長が出て北条流を開き,氏長の門下から山鹿素行が出て山鹿流を開き,《兵法神武雄備集》《武教全書》などの兵書を著した。氏長と同門の小早川能久の門下には香西成資があって《武田兵術文稿》を著した。…
…江戸前期の兵学者,儒者。江戸時代には山鹿流兵法の名とともに兵学者として最も名高く,後世では朱子学を批判した儒者として知られる。名は高興,高祐など,通称は甚五左衛門,素行と号し積徳堂ともいった。…
※「山鹿流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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