幕末の尊攘の志士。増実と名のり,田城と号する。肥後国益城郡田城村の医家に生まれたが医業を継がず,伯父増美に山鹿流の兵学を学ぶ。のち藩に召されたが,交流を得た吉田松陰と江戸に留学し,東北を巡遊する。松陰に〈毅然たる武士なり。僕常に以て及ばず〉と評された人物であった。ペリー来航に際し時務策を呈したが,顧みられること少なかったため絶望し,世人との交りを絶つ。しかし1862年(文久2)に上京して尊攘運動に参加し,ついで肥後藩兵の上京に従う。翌年学習院出仕を命ぜられ攘夷親征に参画するが,8月18日の政変で敗退し長州に赴く。64年(元治1)ひそかに入京し長州藩主雪冤のために画策するが,京都三条の池田屋で新選組に襲撃されて自刃(池田屋事件)。弟の春蔵(1839-64)も志士として活動,禁門の変ののち自刃した。
執筆者:池田 敬正
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幕末期の攘夷(じょうい)運動家。諱(いみな)は増実。号は田城(でんじょう)、尖庵(せんあん)。肥後国益城(ましき)郡西上野村の医師宮部春吾素直の第二子。叔父増美について山鹿流兵学を学び、その家を継いで藩の軍学師範となる。1851年(嘉永4)江戸に出て、吉田松陰(しょういん)と知り合う。海防に関する意見書を藩に提出するが、いれられず帰国。1862年(文久2)上京して薩摩藩の有馬(ありま)新七らと交わり、熊本藩攘夷派の総帥と目される。1863年朝廷に親兵が創設されると、熊本藩の有志50名余を率いてこれに加わる。八月十八日の政変後、長州に逃走。1864年(元治元)上京して長州藩の勢力挽回を図る活動に従事するが、6月5日池田屋事件で死亡。1891年(明治24)正四位(しょうしい)を追贈。
[青山忠正]
『武藤厳男編『肥後先哲偉蹟 後篇』(1928・肥後先哲偉蹟後篇刊行会)』▽『田尻佐編「贈位諸賢伝」(芳賀登ほか編『日本人物情報大系42』所収・2000・皓星社)』
(三澤純)
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…文久3年(1863)8月18日の政変後の京都は,公武合体派の勢力下におかれ尊攘派志士の活動は圧迫されていた。勢力挽回を意図した尊攘派は,熊本藩の宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保の暗殺を企てた。志士たちは京都に潜入して画策するが,ひそかに武器を集めていた近江出身の古高俊太郎が新撰組に捕らえられるなど,きびしい情勢が切迫していた。…
※「宮部鼎蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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