山鹿素行(読み)ヤマガソコウ

デジタル大辞泉 「山鹿素行」の意味・読み・例文・類語

やまが‐そこう〔‐ソカウ〕【山鹿素行】

[1622~1685]江戸前期の儒学者・兵学者。会津の人。江戸に出て儒学・兵学・神道・仏教・歌学などを修め、古学提唱した。官学朱子学を批判して「聖教要録」を著し、播磨はりま赤穂に流されたが、許されて江戸に帰った。著「配所残筆」「中朝事実」「武教全書」など。

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精選版 日本国語大辞典 「山鹿素行」の意味・読み・例文・類語

やまが‐そこう【山鹿素行】

  1. 江戸前期の儒者、兵学者。古学の開祖。名は高興、字は子敬、通称甚五左衛門。会津若松の人。儒学を林羅山に、兵学を小幡景憲北条氏長に学び、「兵法神武雄備集」で名声を高め、大名・旗本に兵学の弟子が多かった。赤穂藩江戸屋敷に仕えて朱子学を奉じたが、後、古学を提唱し、朱子学を批判した「聖教要録」によって赤穂に配流された。延宝三年(一六七五)に赦免され、江戸で松浦藩の援助を受けた。山鹿流軍学の始祖。著「武教要録」「武教全書」「中朝事実」「原源発揮」「山鹿語類」など。元和八~貞享二年(一六二二‐八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山鹿素行」の意味・わかりやすい解説

山鹿素行
やまがそこう
(1622―1685)

江戸前期の儒者、兵学者。名は高興(たかおき)、字(あざな)は子敬(しけい)、通称は甚五左衛門、素行は号。元和(げんな)8年8月16日会津若松に生まれる。江戸に出、1630年(寛永7)林羅山(はやしらざん)に入門、儒学を学び、小幡景憲(おばたかげのり)、北条氏長(ほうじょううじなが)に兵学を学ぶ。若くして『四書諺解(げんかい)』『兵法神武雄備集』(1651)を著し、さらに神道(しんとう)・和学を修めるなど秀才ぶりを発揮し名声をあげた。幕府仕官の内意があったが、将軍家光(いえみつ)の死により実現しなかった。1652年(承応1)より1660年(万治3)まで、門人でもあった播磨(はりま)赤穂(あこう)藩主浅野長直(あさのながなお)(1610―1672)に仕え、この間兵学上の主著『武教全書』(1656)などを著す。林家入門以来朱子学の訓詁(くんこ)に親しんでおり、のち老荘や禅にもひかれ、儒仏老三教一致的な見解を述べたこともあるが、35歳の『修教要録』では朱子学の立場にたつ。

 しかし朱子学の、日常から遊離した観念的な思弁と日常の生活行為と遮断された内面の修養に対する批判は、それ以後しだいに明確となり、門人たちが編纂(へんさん)した『山鹿語類』(1665成立)では、漢(かん)・唐(とう)・宋(そう)・明(みん)の書を媒介とせず直接古代の聖賢の教えにつくべきであるとする古学的立場が表明され、『語類』聖学篇(へん)の要約ともいえる1665年(寛文5)に著された『聖教要録』では、古学転回後の素行学が体系的に展開された。しかし『聖教要録』は「不届成(ふとどきなる)書物」とされ、翌1666年幕府によって播磨赤穂に流され、1675年(延宝3)許されるまで流謫(るたく)の身であった。その間、朱子の『四書集註(ちゅう)』を批判した『四書句読(ししょくとう)大全』、日本を中華とする日本主義の立場から神代・古代について述べた『中朝事実』、武家の百科全書ともいうべき『武家事紀』などを著し、配流から赦免された1675年には自伝的著作として有名な『配所残筆』を著した。その後江戸において主として兵学に関する講学・著述に努め、『原源発揮諺解』などを著したが、貞享(じょうきょう)2年9月26日江戸の私邸積徳堂に没した。享年64歳。その墓は現在、東京新宿区の宗参寺(そうさんじ)にある。

 素行の門人・支持者のうち大名では、浅野長直をはじめ陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩主津軽信政(つがるのぶまさ)(1646―1710)、下野(しもつけ)烏山(からすやま)藩主板倉重矩(いたくらしげのり)(1617―1673)、肥前(ひぜん)大村藩主大村純長(おおむらすみなが)(1636―1706)、同平戸(ひらど)藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)(素行の弟義行(よしゆき)が家老として仕え、のち孫高道が平戸に下り、一族は現在に至っている。平戸には山鹿文庫があり重要文化財の稿本類を伝えている)らが知られている。

[佐久間正 2016年7月19日]

『『山鹿素行全集』全15巻(1940~1942・岩波書店)』『田原嗣郎・守本順一郎校注『日本思想大系32 山鹿素行』(1970・岩波書店)』『堀勇雄著『山鹿素行』(1959/新装版・1987・吉川弘文館)』『佐佐木杜太郎著『山鹿素行』(1978・明徳出版社)』『山鹿光世著『山鹿素行』(1981・原書房/再刊・1999・錦正社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「山鹿素行」の意味・わかりやすい解説

山鹿素行 (やまがそこう)
生没年:1622-85(元和8-貞享2)

江戸前期の兵学者,儒者。江戸時代には山鹿流兵法の名とともに兵学者として最も名高く,後世では朱子学を批判した儒者として知られる。名は高興,高祐など,通称は甚五左衛門,素行と号し積徳堂ともいった。浪人の子として会津若松に生まれ6歳で江戸に移り,林羅山に入門し,ついで小幡景憲,北条氏長について兵学を修めた。幼時から学問にすぐれたが,しだいに兵学者として名を知られるようになり,諸大名から招かれたが仕官せず,幕府に仕えることを願った。この願望は終生続いたが達せられなかった。1652年(承応1)から60年(万治3)まで赤穂浅野家に仕えたのは,慶安事件などで浪人の取締りがきびしくなったからであろう。素行の兵学は近世のそれが軍法(戦技,戦術)から士法(武士のあり方)へと重点を移してきたのにそって,儒学を基礎として〈士〉としてのあり方を中心に説かれ,みずから武教と称した。35歳ごろにはこの兵学は完成し,《武教本論》《武教全書》が主著である。40歳を過ぎるころから,当時の儒学の主流であった朱子学に疑問をもつようになり,65年(寛文5)には《聖教要録》を著して朱子学を批判したが,〈不届なる書物〉を刊行したとの理由で幕命により,66年から75年(延宝3)まで赤穂浅野家に預けられた。この事件の裏には朱子学者山崎闇斎を支持する将軍補佐役の保科正之があるといわれる。素行は朱子学を君臣,父子などの人倫を軽視し,自己の内側に最高善を求める内観的な思想すなわち仏教同様の思想として批判したのであったから,理論的には問題であるが,彼自身は人倫を重視し,それを天地の誠-聖人の道で基礎づけようとする方向をたどった。また晩年には,日本が聖人の道の行われた最もすぐれた国であるとする立場をとるようになり,《中朝事実》を著した。そのほかに《山鹿語類》《謫居童問》《武家事紀》《配所残筆》などの著書が重要である。
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朝日日本歴史人物事典 「山鹿素行」の解説

山鹿素行

没年:貞享2.9.26(1685.10.23)
生年:元和8.8.16(1622.9.21)
江戸前期の儒学者,兵学者。名は高祐また高興,字は子敬,通称甚五左衛門,素行は号。もと関一政に仕えた浪人の父貞以の次男として会津若松藩(福島県)の蒲生氏の家老町野氏邸で生まれる。母は岡氏。寛永4(1627)年蒲生氏の改易で江戸に出,父は町医を開業,同年より漢籍を学び7年9歳で林羅山に入門,13年小幡景憲,北条氏長に入門,甲州流(武田流)兵学を修め,21歳で印可を受け『兵法神武雄備集』を著す。また15年から広田坦斎に就き和学・歌学を,高野山按察使院光宥から神道を学ぶ。早熟の秀才として諸大名から招かれたが,承応1(1652)年播摩国(兵庫県)赤穂藩主浅野長広に仕え,禄1000石を与えられ,翌2年赤穂に赴き築城縄張りを行う。明暦2(1656)年『武教小学』『武教要録』『武教全書』などを著し独自の兵学(山鹿流)を完成。万治3(1660)年浅野家を致仕。この前後から朱子学に疑問を抱き老荘に近づいたり,禅宗に接し隠元禅師と問答(1658)したりして,寛文2(1662)年ごろ朱子学から離れて直接古典に依拠した新しい学問としての聖学,聖教を構想,2年から門人などに『山鹿語類』を編集させ,また『聖教要録』を著し,5年刊行。この書が朱子学(崎門学)信奉者である会津藩主保科正之を怒らせ,翌6年10月赤穂配流となった。配流は延宝3(1675)年迄9年間におよぶが,その間『四書句読大全』『謫居童問』『中朝事実』『武家事紀』など大著を完成し,また自伝『配所残筆』を書いた。赦免後江戸に帰り浅草田原町に住み「積徳堂」と号す。晩年も『原源発機』『治平要録』などを著した。黄疸で没す。墓は牛込弁天町宗参寺。 素行の聖学は「今日日用事物の上」に立つ学問を求めて朱子学の注釈を捨て「周公孔子の書」に直接依拠しようとした点で古学の先駆とされる。しかし古典の注釈については朱子学に依存し,独自の注釈的研究はなされなかった。素行の学問は儒学としては後代への影響に乏しく,兵学はその学統が幕末まで継承された。なおいわゆる四十七士と山鹿流兵学との関係はなかったというのが事実である。<参考文献>堀勇雄『山鹿素行』,田原嗣郎・守本順一郎『山鹿素行』(日本思想大系32)

(沼田哲)

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百科事典マイペディア 「山鹿素行」の意味・わかりやすい解説

山鹿素行【やまがそこう】

江戸前期の儒学(古学)者,兵学者。名は高興(たかおき),字は子敬,通称は甚五左衛門。陸奥(むつ)会津に生まれ,年少にして江戸に出,林羅山に学ぶ。また小幡景憲らについて甲州流軍学を修めた。初め朱子学を奉じたが,のち《聖教要録》を著し朱子学を批判した。このことが幕府に咎められ,1666年播磨(はりま)赤穂藩主浅野家に預けられたが,同家の厚遇を受けた。大石良雄らはそのときの門下。晩年は日本が聖人の道が行われた最も優れた国であるとの立場をとり,《中朝事実(ちゅうちょうじじつ)》を著した。著書《山鹿語類》《武家事紀》《配所残筆》など。→兵学
→関連項目荻生徂徠古学派儒教大道寺友山

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山鹿素行」の意味・わかりやすい解説

山鹿素行
やまがそこう

[生]元和8(1622).8.16. 会津若松
[没]貞享2(1685).9.26. 江戸
江戸時代初期の古学派の儒学者,兵学者。名は義以,高興,高祐,字は子敬,通称は甚五左衛門,素行は号,別号は穏山。父は貞以。幼時から漢籍を学び,6歳のとき江戸に出て,9歳のとき林羅山の門に入って朱子学を学んだ。 15歳のとき小幡景憲,北条氏長について甲州流軍学を学び,神道,歌学,老荘にも詳しく,博学をもって鳴り,31歳のとき播州赤穂藩主浅野長直に仕えた。辞任後,44歳のとき『聖教要録』を著わし,古学の立場を明らかにし,朱子学を批判したため,翌年保科正之らの策動により赤穂に幽閉を命じられ,以後9年間幽居の身となった。この間『中朝事実』 (1681) を著わし,日本主義を提唱。晩年許されて江戸に帰り,兵学を講じた。主著『武教全書』 (56) ,『山鹿語類』『配所残筆』。『山鹿素行集』 (8巻,1936) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山鹿素行」の解説

山鹿素行
やまがそこう

1622.8.16~85.9.26

江戸前期の儒学者・兵学者。父は貞以(さだもち)。名は高祐また高興,字は子敬,通称は甚五左衛門,素行は号。陸奥国会津若松生れ。9歳で林羅山(らざん)に入門,15歳で甲州流兵学の小幡景憲(おばたかげのり)・北条氏長に入門し,武芸と兵学を学ぶ。さらに広田坦斎(たんさい)から和歌・歌学を,高野山按察(あぜち)院の光宥から神道を学んだ。1652年(承応元)播磨国赤穂藩に1000石で仕えたが60年(万治3)辞し,江戸で教育と学問に専念した。朱子学に疑問を抱き,直接「周公孔子の道」につくことを唱え,65年(寛文5)「聖教要録」を刊行し,保科正之らの忌諱にふれ旧主赤穂藩に配流。75年(延宝3)赦され江戸浅草に居住。朱子学の内面主義を批判して日用有用の学を提唱したが,その学統は,儒学説よりも山鹿流兵学として継承されていった。代表作は「四書句読大全」「謫居童問(たっきょどうもん)」「中朝事実」「武家事紀」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山鹿素行」の解説

山鹿素行 やまが-そこう

1622-1685 江戸時代前期の兵法家,儒者。
元和(げんな)8年8月16日生まれ。林羅山に朱子学を,小幡景憲(おばた-かげのり),北条氏長に武芸,兵学をまなぶ。「武教全書」などをあらわし山鹿流兵学を完成。寛文5年「聖教要録」で朱子学を批判し,播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩浅野家預けとなる。10年後にゆるされ,江戸積徳堂でおしえた。貞享(じょうきょう)2年9月26日死去。64歳。陸奥(むつ)会津(福島県)出身。名は高興。字(あざな)は子敬。通称は甚五左衛門。著作に「配所残筆」「武家事紀」など。
【格言など】その言行己れより賢(まさ)れる者は,以て師とすべし(「聖教要録」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「山鹿素行」の解説

山鹿素行
やまがそこう

1622〜85
江戸前期の古学派の儒学者・兵学者
陸奥(福島県)会津の人。江戸に出て林羅山に朱子学を,小幡景憲に甲州流兵学を学んだ。儒学の実践性と日本的学問体系を主張,『聖教要録』『山鹿語録』『中朝事実』などを著した。『聖教要録』で朱子を通してでなく古代の聖賢の教えにかえることを主張し,当時の官学たる朱子学を批判したため播磨(兵庫県)赤穂藩へ流された。赤穂藩士に武士道を鼓吹。その後許されて江戸に帰り,私塾を開き軍学山鹿流兵学を講じた。

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367日誕生日大事典 「山鹿素行」の解説

山鹿素行 (やまがそこう)

生年月日:1622年8月16日
江戸時代前期の儒学者;兵学者
1685年没

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世界大百科事典(旧版)内の山鹿素行の言及

【実学】より

…江戸前期では,仏教を虚学とし,儒教とくに朱子学を実学と考えた林羅山,中江藤樹らによれば道徳的実践,人間的真実の追求こそ実学と考えられた。古学派があらわれるに及び,山鹿素行は日常生活における道徳的実践と結びついた学問を実学とし,荻生徂徠によると歴史学にみられる事実に即した学問のなかに実学は成立すると考え,価値判断から自由な事実認識の上にたつ実証的な学問こそ真の学問であるとして,従来の道徳的実践を中心におく学の大変革を行った。 徂徠以後,実学思想は一変した。…

【神儒一致論】より

…新井白石は朱子学系統の学者ではあるが日本の歴史地理にも通暁し,その著書《古史通》において神代史に対し合理的解釈を展開,〈神は人なり〉の立場から,儒教的合理主義の神道観を究極まで発展させた。古学派の祖山鹿素行も広田坦斎から忌部流の神道を伝授されたと伝えているが(《配所残筆》),これが彼の武学思想における日本主義的傾向の一要因となったことは確かである。しかし彼自身が独自の神道論を展開することはなかった。…

【中朝事実】より

…江戸前期の儒者山鹿素行の著書。赤穂流謫中の1669年(寛文9)に書き上げられ,81年(天和1)津軽藩から板行された。…

【配所残筆】より

山鹿素行の自伝的著作。1巻。…

【武家事紀】より

…本書は《中朝事実》とともに素行が播磨赤穂に配流中執筆したもので,素行の気迫と博学とが遺憾なく発揮されている。《山鹿素行全集》所収。【岩沢 愿彦】。…

【武士道】より

…士道も武士道も武士社会に武士の心組み,生き方として自覚されたものであり,武士の思想としての共通性をもつが,武士道は儒教的な士道に対して批判的な立場をとるものであり,士道が人倫の道の自覚を根本とするのに対して,武士道は死のいさぎよさ,死の覚悟を根本とする。
[士道論と武士道論]
 近世の士道論を代表するのは山鹿素行であり,狭義の武士道論を代表するのは《葉隠》である。まず両者の死に対する姿勢をとり上げると,素行はつねに〈死を心にあて〉るべきだとし,《葉隠》は〈武士道と云は死ぬ事と見付けたり〉という。…

【兵法】より

… しかし兵法の諸流派が喧伝されるようになったのは幕藩体制下軍学(兵学)が興隆してからである。軍学の主流は武田氏の遺臣と称する小幡景憲が創始した甲州流軍学と考えてよいであろうが,この門下から北条氏長が出て北条流を開き,氏長の門下から山鹿素行が出て山鹿流を開き,《兵法神武雄備集》《武教全書》などの兵書を著した。氏長と同門の小早川能久の門下には香西成資があって《武田兵術文稿》を著した。…

※「山鹿素行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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