日本大百科全書(ニッポニカ) 「窪田清音」の意味・わかりやすい解説
窪田清音
くぼたすがね
(1791―1866)
幕末の兵学者、講武所頭取兼兵学師範役。旗本窪田助左衛門勝英(かつふさ)(1758―1851)の長子。初名は勝栄、通称助太郎、のち源太夫、修業堂と号した。父勝英は兵学、武術の達人として知られ、中島流の砲術を教授し、晩年は延寿斎武楽と号した。清音は幼少のころから武術の修業に励み、父からは中島流を、外祖父の黒野義方から山鹿(やまが)流兵法および吉富流居合を伝授され、また平野匠八について田宮流剣術および関口流柔術を修め、1813年(文化10)23歳のとき芸術出精(げいじゅつしゅっせい)を賞せられて大御番士(おおごばんし)に登用された。その後も甲州、越後(えちご)、長沼などの諸流兵法を兼修し、宝蔵院流、無辺無極(むへんむきょく)流槍(そう)術や小笠原(おがさわら)流、日置(へき)流弓術、さらに能島(のじま)流水軍や伊勢(いせ)流武家故実(こじつ)に通じた。36年(天保7)には弓矢鑓奉行(ゆみややりぶぎょう)、その後、御広敷(おひろしき)番頭、御納戸頭(おなんどがしら)に累進したが、42年8月、同僚の羽倉外記(げき)と職務上の争論をして御役御免(おやくごめん)となり、寄合に編入された。このころから、彼がもっとも得意とする山鹿流兵学と田宮流居合を中心として、門人の育成と武術書の著述に力を注ぎ、55年(安政2)幕府に講武場(所)が新設されると、同所の頭取兼兵学師範役に抜擢(ばってき)され、山鹿流を講じた。しかし、精神的な士道教育に重点を置く窪田の兵学講義は、時代遅れの感があり、人々から「下手の長談義」と評されるほどで、在職3年余、58年11月、御留守居番に転じた。
[渡邉一郎]
『山田次朗吉編『剣道集義』(1968・高山書店)』▽『窪田清音著『略伝』(国学院大学所蔵・佐々木文庫)』▽『石岡久夫著『兵法者の生活』(1981・雄山閣出版)』