小幡景憲(読み)おばたかげのり

精選版 日本国語大辞典 「小幡景憲」の意味・読み・例文・類語

おばた‐かげのり【小幡景憲】

江戸前期の兵学者。武田家家臣、小幡昌盛三男。通称孫七郎、または勘兵衛徳川氏に仕え、大坂の陣では諜者として大坂城にはいった。甲州流軍学の祖として門弟を多く集めた。「甲陽軍鑑」を加筆集大成したといわれる。元亀三~寛文三年(一五七二‐一六六三

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デジタル大辞泉 「小幡景憲」の意味・読み・例文・類語

おばた‐かげのり〔をばた‐〕【小幡景憲】

[1572~1663]江戸初期の軍学者甲州流軍学の祖。甲斐の人。通称、勘兵衛。関ヶ原の戦いに東軍で功をあげ、大坂夏の陣では城内にあって徳川軍に内通。門弟に山鹿素行やまがそこうがいる。「甲陽軍鑑」を編纂へんさんしたと伝えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小幡景憲」の意味・わかりやすい解説

小幡景憲
おばたかげのり
(1572―1663)

江戸初期の兵法学者、甲州流兵法の始祖。武田の家士又兵衛昌盛(まさもり)(1534―82)の第3子、通称孫七郎または勘兵衛、名は縄尚(直)(つななお)のち景憲と改め、道牛と号した。1582年(天正10)4歳のとき武田家が滅亡し、小幡一族は遠州井伊氏に仕えたが、兄昌忠は徳川家康に仕え、その縁で11歳のとき当時7歳の秀忠(ひでただ)の侍童となった。95年(文禄4)24歳のとき致仕し、兵法家を志して諸国を遍歴し、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに井伊直政の麾下(きか)に属して功を立てたが、ふたたび浪人して、07年には江戸の小野忠明(ただあき)より一刀流の印可を受け、京都で教授した。14年大坂冬の陣には前田利常(としつね)の手に加わり、真田(さなだ)の砦(とりで)を攻めて軍功があったという。夏の陣には、板倉勝重(かつしげ)と通じ、偽って大野治長(はるなが)の招きに応じて大坂城に入り、城内を探索して陥落直前に脱出、徳川方に通報した。戦後、徳川家への復帰を許されて500石を知行(ちぎょう)し、32年(寛永9)には御使番に進み、相模(さがみ)、甲州などで1500石を領した。この間、城取りを武田の遺臣早川幸豊(ゆきとよ)の門に、また古伝の軍配兵法を岡本半助(はんすけ)、赤沢太郎左衛門、益田秀成らに学び、また腹心の門人杉山八蔵盛政、村上庄次郎昌宣(まさのぶ)の協力によって兵法学の基盤を固め、根本伝書『甲陽軍鑑』を増補集成して一流を樹立した。寛永(かんえい)(1624~44)末年には名声も一段と高まり、細川光尚(熊本)、松平輝綱(てるつな)(川越)、浅野長治(ながはる)(三次(みよし))などの諸大名をはじめ、その門に遊ぶ者2000余人に及び、印可門人は33名を数えた。なかでも北条氏長(うじなが)、山鹿素行(やまがそこう)が有名で、師の学を発展させて、それぞれ一流の祖となった。

[渡邉一郎]

『石岡久夫著『日本兵法史 上』(1972・雄山閣出版)』『石岡久夫著『兵法者の生活』(1981・雄山閣出版)』

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百科事典マイペディア 「小幡景憲」の意味・わかりやすい解説

小幡景憲【おばたかげのり】

江戸前期の軍学者,甲州流軍学の始祖。甲斐武田家小幡昌盛の子。はじめ徳川家康に仕え,秀忠の小姓となる。一時流浪の身となったが,関ヶ原の戦大坂の陣で戦い戦功をたて,再び幕府に仕える。《甲陽軍鑑》を補い,集大成。門下に山鹿素行
→関連項目大道寺友山

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改訂新版 世界大百科事典 「小幡景憲」の意味・わかりやすい解説

小幡景憲 (おばたかげのり)
生没年:1572-1663(元亀3-寛文3)

江戸前期の甲州流の兵学者。幼名孫七郎,のち勘兵衛と称し,号は道牛。甲斐武田氏家臣小幡昌盛の三男。11歳で徳川家康に仕え,秀忠の小姓となる。一時,出奔し流浪の身となったが,関ヶ原の戦,大坂の陣で戦功があった。徳川氏の旗本に帰参後,知行地500石を与えられ,のち使番,1500石を領した。軍法に通じ甲州流兵学を大成したが,これを武田流,信玄流と称した。その門下から北条安房守氏長の北条流,山鹿素行の山鹿流など諸流が出た。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「小幡景憲」の解説

小幡景憲

没年:寛文3.2.25(1663.4.3)
生年:元亀3(1572)
江戸前期の兵学者。甲州流兵学の祖述者。幼名を熊千代。景憲は諱。孫七郎,勘兵衛とも称し,晩年に道牛と号した。武田勝頼の家臣小幡昌盛の子で,天正10(1582)年武田家滅亡ののちに徳川家に仕えたが,文禄4(1595)年浪人。関ケ原の戦で井伊直政の陣にあって戦功をあげ,大坂冬・夏の陣(1614,15)にも加わる。陣後,江戸幕府に帰参した。この間,中世以来の古兵学について研究し,武田氏の遺臣たちに甲州の兵法を尋ね,『甲陽軍鑑』などを集大成して元和年間(1615~24)に甲州法兵学を立てた。有力大名をはじめその門に学ぶ者が多く,のちの兵学諸流派に大きな影響をおよぼした。

(所荘吉)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小幡景憲」の意味・わかりやすい解説

小幡景憲
おばたかげのり

[生]元亀3(1572)
[没]寛文3(1663).2.25.
江戸時代初期の軍学者。甲州流軍学の祖。武田氏の武将海津城主豊後守昌盛の次子 (一説には3子) 。幼名熊千代,長じて孫七郎あるいは勘兵衛と称し,号は道牛。武田勝頼の滅亡で孤児となったが,徳川家康は哀れんで,秀忠の侍童とした。兵法武術を修練し禅学を修めた。関ヶ原の戦い,大坂冬の陣の功により寛永9 (1632) 年御使番となり禄高 1500石。その間『甲陽軍鑑』の補訂を志し集大成したといわれる。門弟多く,なかでも北条氏長,山鹿素行は最も有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小幡景憲」の解説

小幡景憲 おばた-かげのり

1572-1663 江戸時代前期の兵法家。
元亀(げんき)3年生まれ。甲斐(かい)(山梨県)武田氏の家臣小幡昌盛の3男。武田氏の滅亡後徳川家につかえ,寛永9年使番となる。甲州流兵学の祖として知られ,「甲陽軍鑑」を増補・集成した。弟子に北条氏長,山鹿素行(やまが-そこう)らがいる。寛文3年2月25日死去。92歳。幼名は熊千代。通称は孫七郎,勘兵衛。

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367日誕生日大事典 「小幡景憲」の解説

小幡景憲 (おばたかげのり)

生年月日:1572年5月1日
江戸時代前期の兵学者
1663年没

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世界大百科事典(旧版)内の小幡景憲の言及

【甲陽軍鑑】より

…江戸初期に集成された軍書。武田氏の老臣高坂弾正昌信の遺記を基に,春日惣二郎,小幡下野らが書きつぎ,小幡景憲が集大成したといわれる。20巻59品から成り,武田信玄・勝頼の2代にわたる治績,合戦,戦術,刑法等が記され,初期武士道に関する記述もみられる。…

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