コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

小幡景憲 おばたかげのり

8件 の用語解説(小幡景憲の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小幡景憲
おばたかげのり

[生]元亀3(1572)
[没]寛文3(1663).2.25.
江戸時代初期の軍学者。甲州流軍学の祖。武田氏の武将海津城主豊後守昌盛の次子 (一説には3子) 。幼名熊千代,長じて孫七郎あるいは勘兵衛と称し,号は道牛。武田勝頼の滅亡で孤児となったが,徳川家康は哀れんで,秀忠の侍童とした。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

おばた‐かげのり〔をばた‐〕【小幡景憲】

[1572~1663]江戸初期の軍学者。甲州流軍学の祖。甲斐の人。通称、勘兵衛。関ヶ原の戦いに東軍で功をあげ、大坂夏の陣では城内にあって徳川軍に内通。門弟に山鹿素行(やまがそこう)がいる。「甲陽軍鑑」を編纂(へんさん)したと伝えられる。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

小幡景憲【おばたかげのり】

江戸前期の軍学者,甲州流軍学の始祖。甲斐武田家小幡昌盛の子。はじめ徳川家康に仕え,秀忠の小姓となる。一時流浪の身となったが,関ヶ原の戦大坂の陣で戦い戦功をたて,再び幕府に仕える。
→関連項目大道寺友山

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小幡景憲 おばた-かげのり

1572-1663 江戸時代前期の兵法家。
元亀(げんき)3年生まれ。甲斐(かい)(山梨県)武田氏の家臣小幡昌盛の3男。武田氏の滅亡後徳川家につかえ,寛永9年使番となる。甲州流兵学の祖として知られ,「甲陽軍鑑」を増補・集成した。弟子に北条氏長,山鹿素行(やまが-そこう)らがいる。寛文3年2月25日死去。92歳。幼名は熊千代。通称は孫七郎,勘兵衛。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

小幡景憲

没年:寛文3.2.25(1663.4.3)
生年:元亀3(1572)
江戸前期の兵学者。甲州流兵学の祖述者。幼名を熊千代。景憲は諱。孫七郎,勘兵衛とも称し,晩年に道牛と号した。武田勝頼の家臣小幡昌盛の子で,天正10(1582)年武田家滅亡ののちに徳川家に仕えたが,文禄4(1595)年浪人。関ケ原の戦で井伊直政の陣にあって戦功をあげ,大坂冬・夏の陣(1614,15)にも加わる。陣後,江戸幕府に帰参した。この間,中世以来の古兵学について研究し,武田氏の遺臣たちに甲州の兵法を尋ね,『甲陽軍鑑』などを集大成して元和年間(1615~24)に甲州法兵学を立てた。有力大名をはじめその門に学ぶ者が多く,のちの兵学諸流派に大きな影響をおよぼした。

(所荘吉)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

おばたかげのり【小幡景憲】

1572‐1663(元亀3‐寛文3)
江戸前期の甲州流の兵学者。幼名孫七郎,のち勘兵衛と称し,号は道牛。甲斐武田氏家臣小幡昌盛の三男。11歳で徳川家康に仕え,秀忠の小姓となる。一時,出奔し流浪の身となったが,関ヶ原の戦大坂の陣で戦功があった。徳川氏の旗本に帰参後,知行地500石を与えられ,のち使番,1500石を領した。軍法に通じ甲州流兵学を大成したが,これを武田流,信玄流と称した。門下から北条安房守氏長の北条流,山鹿素行の山鹿流などが出た。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

おばたかげのり【小幡景憲】

1572~1663) 軍学者。甲州流軍学の祖。通称、勘兵衛。徳川秀忠に仕えた。門弟に北条氏長・山鹿素行ら多数がいる。「甲陽軍鑑」を増補集成。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小幡景憲
おばたかげのり
(1572―1663)

江戸初期の兵法学者、甲州流兵法の始祖。武田の家士又兵衛昌盛(まさもり)(1534―82)の第3子、通称孫七郎または勘兵衛、名は縄尚(直)(つななお)のち景憲と改め、道牛と号した。1582年(天正10)4歳のとき武田家が滅亡し、小幡一族は遠州井伊氏に仕えたが、兄昌忠は徳川家康に仕え、その縁で11歳のとき当時7歳の秀忠(ひでただ)の侍童となった。95年(文禄4)24歳のとき致仕し、兵法家を志して諸国を遍歴し、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに井伊直政の麾下(きか)に属して功を立てたが、ふたたび浪人して、07年には江戸の小野忠明(ただあき)より一刀流の印可を受け、京都で教授した。14年大坂冬の陣には前田利常(としつね)の手に加わり、真田(さなだ)の砦(とりで)を攻めて軍功があったという。夏の陣には、板倉勝重(かつしげ)と通じ、偽って大野治長(はるなが)の招きに応じて大坂城に入り、城内を探索して陥落直前に脱出、徳川方に通報した。戦後、徳川家への復帰を許されて500石を知行(ちぎょう)し、32年(寛永9)には御使番に進み、相模(さがみ)、甲州などで1500石を領した。この間、城取りを武田の遺臣早川幸豊(ゆきとよ)の門に、また古伝の軍配兵法を岡本半助(はんすけ)、赤沢太郎左衛門、益田秀成らに学び、また腹心の門人杉山八蔵盛政、村上庄次郎昌宣(まさのぶ)の協力によって兵法学の基盤を固め、根本伝書『甲陽軍鑑』を増補集成して一流を樹立した。寛永(かんえい)(1624~44)末年には名声も一段と高まり、細川光尚(熊本)、松平輝綱(てるつな)(川越)、浅野長治(ながはる)(三次(みよし))などの諸大名をはじめ、その門に遊ぶ者2000余人に及び、印可門人は33名を数えた。なかでも北条氏長(うじなが)、山鹿素行(やまがそこう)が有名で、師の学を発展させて、それぞれ一流の祖となった。[渡邉一郎]
『石岡久夫著『日本兵法史 上』(1972・雄山閣出版) ▽石岡久夫著『兵法者の生活』(1981・雄山閣出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の小幡景憲の言及

【甲陽軍鑑】より

…江戸初期に集成された軍書。武田氏の老臣高坂弾正昌信の遺記を基に,春日惣二郎,小幡下野らが書きつぎ,小幡景憲が集大成したといわれる。20巻59品から成り,武田信玄・勝頼の2代にわたる治績,合戦,戦術,刑法等が記され,初期武士道に関する記述もみられる。…

※「小幡景憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

小幡景憲の関連キーワード北条氏長浅井元秋浅井安国伊賀風山小早川式部近松茂矩長沼宗敬深井象山森山富涯甲州流兵学

今日のキーワード

平野美宇

卓球選手。2000年4月14日、静岡県生まれ、山梨県育ち。3歳で卓球を開始。07年に小学1年生で全日本選手権大会バンビの部優勝、09年に小学2年生で同大会ジュニアの部初出場を果たし、注目を集めた。13...

続きを読む

コトバンク for iPhone