江戸初期の兵法学者、甲州流兵法の始祖。武田の家士又兵衛昌盛(まさもり)(1534―82)の第3子、通称孫七郎または勘兵衛、名は縄尚(直)(つななお)のち景憲と改め、道牛と号した。1582年(天正10)4歳のとき武田家が滅亡し、小幡一族は遠州井伊氏に仕えたが、兄昌忠は徳川家康に仕え、その縁で11歳のとき当時7歳の秀忠(ひでただ)の侍童となった。95年(文禄4)24歳のとき致仕し、兵法家を志して諸国を遍歴し、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに井伊直政の麾下(きか)に属して功を立てたが、ふたたび浪人して、07年には江戸の小野忠明(ただあき)より一刀流の印可を受け、京都で教授した。14年大坂冬の陣には前田利常(としつね)の手に加わり、真田(さなだ)の砦(とりで)を攻めて軍功があったという。夏の陣には、板倉勝重(かつしげ)と通じ、偽って大野治長(はるなが)の招きに応じて大坂城に入り、城内を探索して陥落直前に脱出、徳川方に通報した。戦後、徳川家への復帰を許されて500石を知行(ちぎょう)し、32年(寛永9)には御使番に進み、相模(さがみ)、甲州などで1500石を領した。この間、城取りを武田の遺臣早川幸豊(ゆきとよ)の門に、また古伝の軍配兵法を岡本半助(はんすけ)、赤沢太郎左衛門、益田秀成らに学び、また腹心の門人杉山八蔵盛政、村上庄次郎昌宣(まさのぶ)の協力によって兵法学の基盤を固め、根本伝書『甲陽軍鑑』を増補集成して一流を樹立した。寛永(かんえい)(1624~44)末年には名声も一段と高まり、細川光尚(熊本)、松平輝綱(てるつな)(川越)、浅野長治(ながはる)(三次(みよし))などの諸大名をはじめ、その門に遊ぶ者2000余人に及び、印可門人は33名を数えた。なかでも北条氏長(うじなが)、山鹿素行(やまがそこう)が有名で、師の学を発展させて、それぞれ一流の祖となった。
[渡邉一郎]
『石岡久夫著『日本兵法史 上』(1972・雄山閣出版)』▽『石岡久夫著『兵法者の生活』(1981・雄山閣出版)』
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江戸前期の甲州流の兵学者。幼名孫七郎,のち勘兵衛と称し,号は道牛。甲斐武田氏家臣小幡昌盛の三男。11歳で徳川家康に仕え,秀忠の小姓となる。一時,出奔し流浪の身となったが,関ヶ原の戦,大坂の陣で戦功があった。徳川氏の旗本に帰参後,知行地500石を与えられ,のち使番,1500石を領した。軍法に通じ甲州流兵学を大成したが,これを武田流,信玄流と称した。その門下から北条安房守氏長の北条流,山鹿素行の山鹿流など諸流が出た。
執筆者:村上 直
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(所荘吉)
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…江戸初期に集成された軍書。武田氏の老臣高坂弾正昌信の遺記を基に,春日惣二郎,小幡下野らが書きつぎ,小幡景憲が集大成したといわれる。20巻59品から成り,武田信玄・勝頼の2代にわたる治績,合戦,戦術,刑法等が記され,初期武士道に関する記述もみられる。…
※「小幡景憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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