岡崎義実(読み)おかざき・よしざね

朝日日本歴史人物事典 「岡崎義実」の解説

岡崎義実

没年正治2.6.21(1200.8.2)
生年:天永3(1112)
平安末・鎌倉前期の武将四郎,平四郎,悪四郎と称す。三浦義継の4男,妻は中村宗平の娘。相模大住郡岡崎郷の住人。治承4(1180)年源頼朝挙兵に参加,石橋山の戦で長子義忠を討った長尾定景を預かり,その処分をまかされたが,のち頼朝にその助命を願い許された。鎌倉亀谷に源義朝の菩提を弔い堂宇を建てる。頼朝のもとで宿老として重用された。のち老齢で出家後は不遇,家門の窮迫を訴えられた北条政子は,源頼家に所領を義実へ与えるように取りなした。高野山奥院に幡を寄進。89歳の長寿を保った。

(湯山学)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡崎義実」の解説

岡崎義実 おかざき-よしざね

1112-1200 平安後期-鎌倉時代の武将。
天永3年生まれ。三浦義継の4男。相模(さがみ)(神奈川県)岡崎郷の領主。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵にしたがう。石橋山の戦いで長男佐奈田義忠を殺した長尾定景の処分をまかされたが,定景の仏心にうたれて頼朝に助命をねがってゆるされた。正治(しょうじ)2年6月21日死去。89歳。通称は四郎,悪四郎,平四郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の岡崎義実の言及

【岡崎氏】より

…相模国大住郡岡崎を本領とする中世の武家。桓武平氏三浦氏の一族で,義実がこの地に住して岡崎を称したのに始まる。義実とその子義忠(佐奈田余一)は,1180年(治承4)の源頼朝挙兵に際していちはやくその麾下(きか)に参じ,石橋山の戦で義忠は非運の最期を遂げる。息子が戦死した功もあって,義実は鎌倉幕府の有力御家人となるが,一本気な鎌倉武士の典型として伝えられるエピソードが多い人物でもある。頼朝にねだって下された水干を着て喜んだのを,やっかみ半分の上総介広常にからかわれて腹を立て大げんかした話や,息子の仇として預けられた長尾定景の読経の声に感じて彼を助命した話などは有名であるが,孫実忠の所領をめぐる訴訟に負けてからは家運も衰え,義実の晩年も不遇であった。…

※「岡崎義実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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