岡野村(読み)おかのむら

日本歴史地名大系 「岡野村」の解説

岡野村
おかのむら

[現在地名]開成町岡野

東と北は金井島かないしま村、南は延沢のぶさわ村、西は班目まだらめ(現南足柄市)と接する。小田原衆所領役帳に笠原弥十郎「卅五貫文 岡屋村」とあり、慶長年間(一五九六―一六一五)と思われる後藤真成手形(相州古文書)に「岡村」とあり、延命えんめい(現松田町)屋根葺替用竹の提供を命ぜられている。正保国絵図には「岡之村」、「寛文朱印留」に「岡野村」と記す。

近世は小田原藩領。元和五年(一六一九)の村高一七四石余、うち田方一六七石余・畑方六石余(「年貢割付状」県史四)、寛永一〇年(一六三三)の村高一九一石(「年貢割付状」同書)、宝永三年(一七〇六)の家数三〇(「五人組并人別御改帳」内藤文書)の村であったが、翌四年の富士山噴火の降砂によって田畑埋没の被害を受け、さらに翌五年の酒匂さかわ大口おおくち堤防決壊により全村流失、怒田ぬだ(現南足柄市)へ避難した(「岡野村他困窮ニ付御救願書」内藤文書)


岡野村
おかのむら

[現在地名]鯖江市神明しんめい町三―四丁目・さいわい町二丁目・神中かみなか町二―三丁目・御幸みゆき町一―四丁目・丸山まるやま町一丁目

田所たどころ村の北に位置し、村内を北陸街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では鳥羽とば郷に含まれる。正保郷帳では「嶋村」と記され、田方一七八石余・畠方三九石余。元禄郷帳から岡野村となる。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)から幕府領鳥羽野新町由緒書(山森家文書)によれば、岡野村は「前々嶋村と唱ヘ、往来より三丁余東、字嶋中ト申所ニ居村御座候」とあり、近世初頭に北陸街道や鳥羽野が開発されるに及び、新街道沿いに移住した。


岡野村
おかのむら

[現在地名]館林市岡野

東は足次あしつぎ当郷とうごう両村、西は高根たかね村、南は成島なるしま村、北は傍示塚ほうじつか村。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に「岡村」とみえ、寛文郷帳に村名がみえる。田方六八石一斗余・畑方二四六石六斗余、館林藩領。元禄郷帳では旗本戸田領。のち館林藩領に復した。安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によると、田六町七反余・畑三五町六反余、家数五五・人数二二四、馬数五。村鎮守長良ながら大明神・大神宮・鹿島かしま宮があり、御鷹捉飼場、城内堀藻浚土居草刈を勤める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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