岩峅寺村(読み)いわくらじむら

日本歴史地名大系 「岩峅寺村」の解説

岩峅寺村
いわくらじむら

[現在地名]立山町岩峅寺・岩峅野いわくらの天林てんばやし

常願寺川右岸扇状地の扇頂部に位置し、西対岸は上滝かみだき(現大山町)、東は宮路岩峅みやじいわくら村。当地で富山城下からの立山道滑川なめりかわ宿からの岩峅寺道が合さる。鎌倉時代増補「伊呂波字類抄」十巻本の巻四に「自大河北三所(中略)下岩峅寺・今泉」とみえる。岩峅の地名は磐座(神、精霊が来臨する岩石の座)に通じるとされ、常願寺川に突き出た段丘の端の場所を意味していたものか。単に岩峅とも称し、岩倉・岩蔵とも記された。古代以来立山信仰の拠点として重視され、国衙の支配下に置かれてきたと思われるが、越中の国衙支配にかかわる文書史料がほとんど伝存しないため不詳。中世には立山寺(岩峅寺)を中心として立山権現を守る拠点であった。桃井氏が滅亡して以後、旧桃井方を擁立してきた在地勢力の所領の多くが没収されたが、立山寺領の岩峅もその一つであった。岩峅領家職分については、至徳元年(一三八四)一一月三日をもって小佐味こさみ(現下新川郡)井見いみ(現上市町)や立山寺領内の寺田てらだ・岩峅が、太政官牒・官宣旨(鹿王院文書)による手続を経て、京都十刹宝幢ほうとう寺の開山堂である鹿王ろくおう(現京都市右京区)の所領とされ、役夫工米以下の段銭など臨時課役を免除されている。これが朝廷による諸課役免除権行使の最終例史料である。一方、地頭職分は同四年八月六日および嘉慶元年(一三八七)九月六日の足利将軍家御教書(「後鑑」・猪熊信男所蔵文書)により、幕府奉公衆進士次郎政行に給されていたことが知られる。天正一一年(一五八三)八月二〇日、佐々成政が岩倉内三〇〇俵などを立山権現勤行料として寄進している(「佐々成政寄進状」岩峅寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報