島津斉興(読み)しまづ なりおき

美術人名辞典の解説

島津斉興

鹿児島藩主。通称忠温・虎寿丸・憲之助・又三郎、号は渓山・此君庵等。斉宣の長男。財政改革に着手し砂糖専売法の実施等で功績をあげる。また海岸警備の為、大砲・小銃の製造に着手し軍役方を設け武備の充実を計った。大隅守・正四位上宰相等を経て右近衛中将となる。茶礼を能くした。安政6年(1859)歿、69才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

島津斉興 しまづ-なりおき

1791-1859 江戸時代後期の大名。
寛政3年11月6日生まれ。島津斉宣(なりのぶ)の長男。文化6年(1809)薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家10代となり,祖父重豪(しげひで)の後見をうける。調所広郷(ずしょ-ひろさと)を起用して巨額の藩債を整理し,洋式兵制を採用するなど,雄藩としての基盤をつくる。後継をめぐってお家騒動(お由羅騒動)をまねき,幕府の介入によって嘉永(かえい)4年長男斉彬(なりあきら)に家督をゆずった。安政6年9月12日死去。69歳。初名は忠温。通称は又三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

島津斉興

没年:安政6.9.12(1859.10.7)
生年:寛政3.11.6(1791.12.1)
幕末の第11代薩摩(鹿児島)藩主,第27代島津家当主。通称は豊後守,大隅守。官位は従三位参議。第10代藩主斉宣の長子として江戸で生まれたが,「近思録崩」(「文化朋党事件」)により文化6(1809)年に斉宣は隠退し斉興が19歳で襲封した。文政3(1820)年までは祖父重豪の後見を受け,そののちも天保4(1833)年に重豪が死ぬまで,重要事項についてはその指図の下にあったが,文政10年には調所広郷を起用して藩債500万両の整理に乗り出した。斉興の後継者をめぐっては嫡長子の斉彬と,斉興の愛妾お由羅の方の子久光とが競い,嘉永2(1849)年には藩内有識者や青年藩士らが斉彬を擁立すべく行動したことから「お由羅騒動」(「嘉永朋党事件」)と呼ばれる御家騒動に発展し,多くの処罰者を出した。しかし斉彬の襲封を期待する阿部正弘政権下の幕府の圧力によって,斉興は同4年に隠退に追い込まれた。隠居後は鹿児島の玉里御殿で余生を送った。<参考文献>芳即正『調所広郷』

(笠谷和比古)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

367日誕生日大事典の解説

島津斉興 (しまづなりおき)

生年月日:1791年11月6日
江戸時代末期の大名
1859年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の島津斉興の言及

【お由羅騒動】より

…江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。…

【近思録崩れ】より

…江戸時代後期,薩摩藩の事件。1787年(天明7)斉宣が島津家27代の封をついだが,前代重豪(しげひで)の開化進取政策により財政は破局に向かっていた。斉宣は1807年(文化4)近思録派(《近思録》を愛読し,実践を重んずる党派)を起用し,徹底的な緊縮政策を実施し,重豪の新規政策をことごとく破却した。激怒した重豪は翌08年樺山・秩父ら50人ばかりの党類に切腹,遠島,寺入りを命じ,斉宣を隠居させて孫の斉興に襲封させた。…

※「島津斉興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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