日本大百科全書(ニッポニカ) 「崔賢」の意味・わかりやすい解説
崔賢
さいけん / チェヒョン
(1907―1982)
北朝鮮の軍事指導者。中国吉林(きつりん/チーリン)省(間島(かんとう/チエンタオ)地方)琿春(こんしゅん/フンチュン)県生まれ。本名得権。1920年ごろからソ連沿海州(現沿海地方)で抗日武装闘争を開始。1925~1932年投獄されたのち、延吉(えんきつ/イエンチー)県赤衛隊に入って崔賢を名のる。抗日武装闘争の勇将として各地に転戦し大きな功績をあげた。とくに1937年の茂山(もさん/ムサン)地区進出作戦は、当時最大の成果を収めた。
1945年の祖国解放後、帰国して朝鮮人民軍の中枢幹部、朝鮮労働党の最高幹部となる。1950~1954年の朝鮮戦争当時は第二軍団長。1968年民族保衛相、1972年人民武力部長に就任。しかし、金日成(きんにっせい/キムイルソン)より武勲は高いが、字が読めず、政治能力がないというところから、金日成派から疎外され、1976年人民武力部長解任。そのころから、金正日世襲後継者化に対する抵抗のシンボルとなって、多くの迫害を被ったものとみられる。1982年4月9日死去、国葬にされたが、死の直前、金正日、呉振宇(ごしんう/オジヌ)を糾弾する意見書を配布したといわれる。
[玉城 素]