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間島 かんとう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

間島
かんとう

「イエンピエン (延辺) 朝鮮族〔自治州〕」のページをご覧ください。

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デジタル大辞泉の解説

かんとう〔カンタウ〕【間島】

中国吉林(きつりん)省東部、朝鮮民主主義人民共和国との国境に近い延吉一帯の旧称。多数の朝鮮人が居住する。現在の延辺朝鮮族自治州

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百科事典マイペディアの解説

間島【かんとう】

中国の東北地方のうち朝鮮に接する地域をさす朝鮮側からの呼称。白頭山をはさんで西側の鴨緑江上流地方を西間島,豆満江(とまんこう)北方を北間島と呼ぶが,狭義には後者をいう。
→関連項目延吉朝鮮独立運動

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世界大百科事典 第2版の解説

かんとう【間島 Kando】

白頭(長白)山北方の旧満州一帯をさす朝鮮側からの呼称。鴨緑江上流北岸部を西間島,豆満(図們)江北方を北間島と呼ぶが,狭義の間島は後者をさす。古くは夫余・高句麗・渤海の故地,李朝後期以降朝鮮人の入植が漢人より早く進み,墾土,艮土とも記された。清朝盛期にはその発祥地として入植を禁ずる封禁政策により無人地帯であったが,やがて猟師や人参採りが入るようになり,1875年の清朝側解禁前後から農民の開墾,定住が始まり,特に1910年の朝鮮植民地化以後,生活基盤を奪われた朝鮮農民の移住が激増する。

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大辞林 第三版の解説

かんとう【間島】

中国、吉林省の東部、豆満江北岸の延辺朝鮮族自治州にあたる地域。朝鮮王朝後期以降、多くの朝鮮人が国境を越えて定着。中心都市は延吉えんきつ

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

間島
かんとう / チエンタオ

中国、吉林(きつりん/チーリン)省東部の地域。現在の延辺(えんぺん/イエンピエン)朝鮮族自治州がほぼこれにあたる。清(しん)朝発祥の地に近く、清朝は「封禁」の地として満洲族以外の入植を禁じた。しかし、国境を越えて移住した朝鮮民族によって開墾が進み、1882年清朝が漢民族に開墾を公認したときには、すでに多くの土地が開墾済みとなっていた。その後、清と朝鮮両国間で国境紛争を生じ、ロシア、日本もこれに介入、1909年日本は間島を清国領と認めることにより、他の満州での利権問題を解決するため、朝鮮に清の主張する国境線を認めさせた(間島問題)。その後、日本の朝鮮支配に抵抗する人々が多く間島に逃れ、朝鮮民族独立運動の拠点となり、日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」成立後も、金日成(きんにっせい/キムイルソン)らの指導下で武装抗日の戦いが続いた。1949年の解放後、52年延辺朝鮮族自治区、55年同自治州となり、民族自治が認められた。[河野通博]

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世界大百科事典内の間島の言及

【延吉】より

…のち延吉庁が置かれ,1913年延吉道が成立し,この地方の主要都市となった。ところで,朝鮮人側はこの一帯を墾島あるいは間島(かんとう)と称していたが,清・朝間でその領有をめぐって係争が発生し,1909年(宣統1),日本の介入により間島協約が結ばれ,清国領となされた。日本帝国主義の朝鮮植民地化にともない間島地方には多くの朝鮮人が流入し,水田が開発されたが,同時に抗日運動,朝鮮独立運動の基地となった。…

【抗日パルチザン】より

…今日の朝鮮民主主義人民共和国で建国の精神的淵源とされている,1930年代に中国の東北(満州)で共産主義者が展開した抗日パルチザン闘争。1910年の朝鮮植民地化後,間島を中心とする東北一帯では,義兵や独立軍による朝鮮民衆の反日武力抗争が一貫して続けられてきたが,この伝統を継承しつつ満州事変後の1932年春から共産主義者主導の武装闘争は開始された。当時のコミンテルンの一国一党方針により,このパルチザン部隊は形式上は中国共産党満州省委員会指導下の東北人民革命軍(1934年以後は東北抗日聯軍)に属し,朝・中人民連帯による反日帝闘争の一翼を担ったが,東満・北満では実際上朝鮮人が主力の部隊が多かった(朝鮮側文献では朝鮮人民革命軍と呼ぶ)。…

【琿春事件】より

…1920年9月から21年にかけ,日本軍が日本人居留民の保護を名目に〈在満〉朝鮮農民・独立運動家を虐殺し,間島侵略の口実とした事件。直接には9月12日と10月2日の2回にわたる中国人馬賊の琿春城襲撃をさす。…

【宋教仁】より

…のち日本に亡命,中国同盟会の成立に際しては,彼の刊行していた《二十世紀之支那》誌が機関誌に擬せられたことからもうかがえるように,重要な役割を果たした。在日時の活動は多岐にわたるが,とりわけ08年に《間島問題》を著して間島が中国領であることを証明したことは特筆に値する。帰国後,上海で《民立報》を刊行して世論の醸成に努め,また中部同盟会を組織して蜂起を図った。…

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