基本情報
正式名称=朝鮮民主主義人民共和国Democratic People's Republic of Korea
面積=約12万0538km2
人口(2008)=約2405万人
首都=平壌P`yǒngyang(日本との時差なし)
主要言語=朝鮮語
通貨=ウォンWǒn
1948年9月9日に北緯38度線以北に平壌で創建された社会主義国家。朝鮮戦争(1950-53)後は休戦ライン以北を支配領域としており,9道19市144郡からなる。1930年代中国東北で展開された抗日武装闘争の革命伝統を受けつぎ,朝鮮労働党をひきいる金日成を建国以来の指導者として,自主独立の姿勢で一貫してきた。94年の金日成没後,金正日を中心とする後継者体制を築きつつある。〈北朝鮮〉と略称されることが多い。
1945年の8・15解放とともに38度線以北に進駐したソ連軍は,30年代以来の抗日闘争を基盤として朝鮮民衆が自主的に形成していた地域自治組織である人民委員会を基本的に承認し,その上に行政機構を積み上げさせていく方針をとった。ソ連から帰国した金日成は同年10月から大衆の前に登場しており,国内外の共産主義者は精力的に活動していたが,11月28日に設置された〈五道行政局〉の責任者の地位には,20年代以来平壌地域で民衆運動にたずさわってきた民族主義者の曺晩植(そうばんしよく)が就任し,連合戦線形態がとられた。しかし曺は朝鮮信託統治問題において〈反託〉の立場をとって46年1月に辞任し,同年2月8日に組織された北朝鮮臨時人民委員会委員長には北朝鮮共産党責任秘書の金日成が就任した。この体制のもとで同年3月の土地改革,7月男女平等権法令の施行,8月重要産業国有化法令の公布などの民主改革が行われた末,普通選挙を経た過渡的立法機関たる北朝鮮人民会議が47年2月19日に成立し,22日にはそれが執行機関たる北朝鮮人民委員会(委員長金日成)を選出した。48年に入り,南朝鮮単独選挙の機運が濃厚になると,4月平壌で南の右派人士を含む単独選挙反対の南北連席会議が開かれ,一方,統一朝鮮政府樹立をめざす〈朝鮮臨時政府憲法〉が大衆討議に付された。そして,南の大韓民国成立(8月15日)後の8月末に最高人民会議代議員選挙を実施し,立法機関たるその最高人民会議が憲法を採択し金日成を首相とする内閣を選任して,9月9日朝鮮民主主義人民共和国の創建が宣布された。この時の選挙では,南朝鮮の左翼勢力も地域ごとに代表者を送り海州で会議を開き,そこで代議員を選出している。このことが朝鮮民主主義人民共和国が南の人民をも代表していると主張しうる根拠となっている。実際,南朝鮮での左翼弾圧の強化にともない,朴憲永らの指導者は北朝鮮に移っており,そこから南の地下運動を指導しながら,北朝鮮内閣の枢要の地位にも就いていた(朴憲永は副首相兼外相)。なお,ソ連軍は48年末までに撤収し,国防の主体は48年2月8日に創設された朝鮮人民軍が担った。
こうして〈朝鮮革命の民主基地〉としての共和国は,北での経済建設を進める一方,南の解放闘争を支援して統一の回復をめざす態勢をとったが,南でのパルチザン闘争が直面した困難に対して,朝鮮人民軍の力量を投入して支援することを決断し,1950年6月25日〈祖国解放戦争〉(朝鮮戦争)に突入した。しかし,アメリカ軍の反攻で一時は国土の大部分を占領される戦局の激動のなかで,指導部内にも大いに動揺があり,そのことが,中国人民義勇軍の参戦をえて戦線を38度線付近まで押し戻し休戦協定の調印にいたって後の,深刻な党内闘争に尾を引いていった。まず休戦協定調印直後の53年8月に,朴憲永を中心とする南朝鮮労働党系幹部13名が逮捕され裁判のすえ11名が処刑された。これは分派闘争と朝鮮戦争の結果に対する責任をとらされたものとみられる。続いて56年から58年ころにかけて,崔昌益(さいしようえき)らの延安・ソ連派,旧朝鮮共産党国内ML派系グループが主導権の奪取を企図して失敗し,一斉に政権から放逐された。これは,北朝鮮での経済建設の基本路線をめぐる対立で,彼らはソ連依存を前提とする消費財部門中心の建設路線を主張したが,金日成主流派の〈自力更生〉路線に敗れたものといわれる。
こうして,系譜を異にする諸要素が排除されて金日成主導下の一枚岩の指導体制が確立され,50年代末から60年代前半にかけてはチョンリマ(千里馬)運動が提唱され,〈千里馬のスピード〉で社会主義経済建設が推進された。しかし,63年ころからの国際的緊張の激化と中ソ論争の進展が強い影響を及ぼして,国防の強化が優先課題とされ,〈自力更生〉〈自立的民族経済の確立〉が強調されるようになる。金日成は早くからソ連の経済協力姿勢に疑問を抱いており,中国と共通の批判の姿勢に立ちつつもソ連との国家関係は維持し,一方,中国の〈文化大革命〉とは一線を画して中ソ論争の国内波及を強く阻止したという。この間,50年代末以来政治の中枢を担ってきたのは朴金喆,李孝淳らのいわゆる甲山派(抗日パルチザン闘争の後期に北朝鮮北部の甲山郡と対岸中国領の長白県の根拠地で活動した人々)であったが,68年のプエブロ号事件の後,ベトナム支援とも関連する対米強硬路線・対南工作のゆきづまりのなかで甲山派は失脚し,70年代以降のチュチェ(主体)思想の時代へと推移していった。
チュチェ思想は67年から金日成が唱道したものとされ,その語義には変遷があるが,〈自力更生〉論の延長線上の対外的自主独立,大国主義・支配主義反対の側面とともに,革命の主人である人民大衆の自主的創造性の強調を特徴とし,現代を第三世界人民が世界史を切り拓くチュチェの時代ととらえて,非同盟諸国の民族革命に強い関心を示している。また金日成による〈唯一指導体系〉の強調もきわだってきている。こうした70年代の北朝鮮政治史を規定した条件は,日韓条約(1965締結)と韓国の〈従属的発展〉,米中接近,石油危機など,総じて国際環境の厳しさである。米中接近を背景とする72年の七・四南北共同声明への投企が韓国政府の民主化闘争弾圧に利用されてしまったという思いが,以後の対外姿勢の硬さを増させているとみられる。また,72年12月には建国以来の人民民主主義的な性格の憲法を廃止して,新たな社会主義憲法を制定・公布した(これによってソウルを首都として平壌を仮首都とする従来の規定を改めた)。
この状況のもとで,政治中枢は金日成に近い肉親なかんづく前妻の子の金正日(1942- )とその側近グループに担われるという傾向が顕著になる。党官僚をも政治中枢から排除する73年からの三大革命(思想革命,文化革命,技術革命)小組運動が金正日グループの実権掌握の契機となったとされるが,金正日を〈後継者〉とすることが対外的にも明らかにされるのは70年代末からであり,80年の労働党6回大会では公式にも金正日が党中央委政治局筆頭常務委員に選任された。そして83年の金正日中国訪問は,後継者問題の国際的承認とみなされている。ただし,もともと文学・芸術分野の活動に従事していたという金正日および〈党中央(金正日グループ)〉の指導が経済運営の末端にまで及んでいるとは必ずしもいえず,政府実務部門はオーソドックスなマルクス主義者であるテクノクラートに担われているとみられる。80年代に入って崔賢,金一ら建国以来の幹部が相次いで世を去り,若手テクノクラートの真価が問われる時期にきている。83年のビルマ(現,ミャンマー)のラングーン(現,ヤンゴン)における韓国の全斗煥大統領一行に対する爆弾テロ事件(ビルマ政府の報告書では共和国工作員の行為とされる)がこうした状況とどう関連しているかはまだ解明されていない。なお,南北統一問題(〈朝鮮〉[南北分断と統一問題]の項を参照)については,理論上はむしろ柔軟さを増しているが,光州事件(1980)で手の汚れている全斗煥政権を相手にしないという原則論を堅持してきた。しかし,84年に入り,中国の支援を背景に北朝鮮は朝韓米三者会談を提案し,〈合営法〉を施行(9月)して資本主義諸国との合弁にも道を開くなど対外柔軟政策を本格化させるとともに,南への水害救援物資の引渡しを契機に南北経済会談の開催,南北赤十字会談の再開(11月)など南北間の直接交流にも積極的になってきている。南北間の対話は,87年ビルマ沖上空で消息を絶った大韓航空機事件,88年ソウルでのオリンピック開催などでたびたび中断しながらもさまざまな形で続けられ,90年には南北の首相会談が初めて行われるに至った。
朝鮮労働党は,実質的に政府より上位の領導組織である。朝鮮民主党(本来は曺晩植ら民族ブルジョアジーの政党),天道教青友党(抗日の姿勢を維持してきた天道教徒たちが結集した政治組織)等の民主諸党派も存続しているが,ほとんど形だけとなっている。労働党の沿革は1945年10月10日の朝鮮共産党北朝鮮分局の設置にさかのぼり,現在でもこの日が労働党創党の日とされている。〈分局〉における金日成の主導権は45年12月には確立されており,ソウルの党中央(朴憲永ら)の指導を離れて独自の歩みを始めるにつれ,北朝鮮共産党と呼称されるようになったが,46年8月には新民党と合併して北朝鮮労働党(北労党)となり,同時に南朝鮮でも同質の合党により南朝鮮労働党(南労党)が結成された(〈朝鮮労働党〉の項参照)。これは革新諸党分立の止揚による大衆的基盤の確立をねらいとするものであったが,同時に南北の組織の分離をも意味した。しかし南労党の活動は弾圧下で困難をきわめ,49年6月には北朝鮮を中心に南北両党が再度合体して朝鮮労働党として発足した。そして朝鮮戦争以後,韓国での活動はほぼ停止し,北朝鮮における指導政党として今日にいたっている。こうした沿革をもつ労働党は少数精鋭の前衛政党の性格だけでなく,労働者・農民・勤労知識人の先進分子に広く開かれた大衆的政党の性格をもっている。党員数は45年12月の北朝鮮共産党時代には4530名にすぎなかったが,北労党時代の46年8月で36万6000名,48年3月72万6000名,さらに56年116万5000名,70年160万名と増大し,80年には306万名,すなわち成人人口の3分の1近くにも達している。
こうした状況のもとで党の領導機能を担う各級幹部組織が党内に形成されているが,中央の幹部機関としては,中央委員会(1980年現在145名から成り,総会は年数回必要に応じて開かれる)と,その内部の秘書局,政治局および常務委員会,検査委員会などがある。なお,金日成は56年以降中央委委員長であり,66年からは総秘書(総書記)である。党大会は中央委員会委員を選任するとともに経済計画の総括と提案を行う北朝鮮で実質上最重要の会議であるが,北労党時代からの通算で呼称しており,第1回大会46年8月,第2回48年3月,第3回56年4月,第4回61年9月,第5回70年11月,第6回80年10月と,近年ではほぼ10年に1回開かれている。
次に国家機関としては,立法機関は普通選挙で選出される最高人民会議である。任期は4年で現在の代議員数は655名,定期会議は年1~2回,数日間開かれ,休会中はその内部に構成された常設会議が業務に当たるが,総じて諸国家機関中でのその実質的役割は大きくはない。執行機関としては72年憲法により,その頂点に国家代表権・人民軍の統轄権を併せもつ国家主席(従来内閣首相であった金日成が就任)とその補助機関である中央人民委員会が新設され,その下に従来の内閣に当たる政務院(その長は総理)があり,さらにその下に実務的な諸部(省)と委員会がおかれている。現在16部と14委員会,1院(朝鮮科学院)がある。司法機関の頂点に立つのは中央裁判所で,ほかに中央検察所が独立しているが,これらは国家主席と中央人民委の指導下に位置づけられている。
地方行政区画は平壌,開城,咸興,清津,南浦の5直轄市と平安南・北道,黄海南・北道,江原道,咸鏡南・北道,慈江道,両江道の9道に分かれる(江原道は軍事境界線で分断されている)。地方機関としては,道・直轄市のレベルとその下の市・郡のレベルに,地方主権機関たるそれぞれの人民会議とそこで選任される執行機関としての人民委員会があり,その他に政務院の指導を受ける地方経済指導委員会(1981年9月までの行政委員会を改編拡充した実務部署)がある。なお,道・直轄市裁判所と市・郡の人民裁判所は中央裁判所の指導下に立つが,それぞれの人民会議から選任される形となっており,人民参審員制度が各級ごとに取り入れられている。
建国当初の外交関係は,中国,ソ連および東欧圏に限られざるをえなかった。61年韓国で朴正煕政権を成立させた五・一六軍事クーデタの直後,北朝鮮は7月にソ連および中国とそれぞれ友好・協力・相互援助条約を締結している。しかし,60年代以降はむしろ第三世界諸国との連帯の強化に重点をおくようになり,アフリカ諸国などからの国家元首級の人物の訪問が頻繁である。ソ連,東欧の政治改革で,これらの国と韓国との交流が深まり,この点では苦しい立場に立たされている。1989年11月現在国交締結国は102ヵ国。日本など国交のない国との交流は対外文化連絡協会が窓口となっている。
62年12月,〈国防における自主〉〈経済建設と国防建設の並進〉をかかげて〈全人民武装化〉〈全国要塞化〉〈全軍の幹部化〉〈全軍の現代化〉の四大方針が打ち出され,緊張激化のなかで国防力の充実に重点がおかれてきたことは事実だが,むしろ受身のもので韓国政府のいうような〈南侵の脅威〉が実在するとはみられない。人民軍の総兵力は一説には約100万人というが未詳。その他に労農赤衛隊と呼ばれる民兵組織と,軍ではないが公安機関として政務院傘下の社会安全部がある。
北朝鮮の経済は高度に集権的な体制のもとで社会主義計画経済として運営されている。1946年の重要産業国有化法令により旧日本企業・個人および親日派資本家の生産手段が国有化され,すでに47年からこれを基軸とする初歩的な年間経済計画が立てられていたが,建国当初は,まだ個人農民をはじめ私営商工業者など多様なウクラード(経済制度)が一方に存在する過渡期段階であった。中国のような規模の大きい民族資本家は存在しなかったが,わずかながら資本主義ウクラードも存在した。こうした個人農業と私営商工業の協同化の形態による社会主義改造は朝鮮戦争後の53年秋から開始されたが,いずれも58年に完了して国家的所有と協同所有の両範疇(はんちゆう)のみとなり,60年代に入ると社会主義工業・農業国家に転化したと宣言されるようになった。基幹的な工業部門の大企業はすべて国営で国民経済発展の牽引力をなしており,中小の日用消費財工業には地方機関が運営しているものもある。農業部門では国営農場が若干あるが大多数は協同経営である。里単位(約300~500戸)に統合された農業協同組合は62年秋から協同農場と改称され,国家機関である郡協同農場経営委員会などが統一的に指導している。
建国後の長期経済計画の実施状況は表のとおりである。特に朝鮮戦争後は,社会主義兄弟国からの経済協力を受けつつも,〈重工業を優先的に発展させながら軽工業,農業も同時に発展させる〉総路線を確立し,内部に有機的産業連関を備えた民族的自立経済の構築をめざし,工業諸部門中でも基幹産業と農業関連部門を最優先として60年代初頭にはトラクターなどの農業機械の量産体制をととのえ,工業・農業間に循環のベルトがかかった状態を作り出していった。農作業の機械化は中国よりずっと進んでいる。このことと社会主義改造のもたらした意欲の高揚,労働生産性向上を競うチョンリマ運動,チョンリマ作業班運動等とがあいまって,50年代末から60年代初めにかけては非常に速いテンポでの経済発展がもたらされた。第1次5ヵ年計画期(1960まで)の工業生産の年平均成長率は36.6%に達した。続く第1次7ヵ年計画は工業の年平均成長率18%の目標を設定したが,国防強化その他の要因のためテンポは中途から下がり3ヵ年延長した。工業の年成長率は12.8%という結果に終わり,安定成長時代へ移行していくこととなった。その後,生産の科学技術化・オートメ化,発展の隘路(あいろ)となる運輸・港湾部門の近代化,産業諸部門間の均衡発展,日用消費物資の豊富・多様化などが目標にかかげられるようになり,第3次7ヵ年計画(1987-93)の目標数字としては,電力1000億kWh,石炭1億2000万t,鉄鋼1000万t,セメント2200万t,穀物1500万tなどがかかげられている。なお西側諸国の方式で推計した1人当りGNPは88年で900ドル台だろうといわれている。
次に,もともと〈自力更生〉型の共和国において,貿易依存度はそう高くはなく20%余と推定され,貿易実額は88年で往復45億ドル余とみられる。貿易相手国は,60年代までは社会主義圏が80%以上を占めていたが,70年代初頭に西側諸国から現代的プラントを輸入して以来,対非社会主義圏貿易の比重が増大し,70年代なかば以降は,それが5割前後に達した。しかし80年代にはいると,対外債務不払いの影響で激減している。日本との貿易は国交がないため悪条件下での民間協定で行われているが,88年で対日輸出3億2500万ドル,輸入2億4000万ドルの規模に達している。だが共和国の貿易構造をみると,輸出は主に非鉄金属,農水産物,鉄鋼,非金属鉱物など,輸入は機械・設備,原油・石油製品,コークスなどで,明らかに1次産品輸出国型の特徴をもっている。このことから,第三世界の非産油途上国と同様に石油危機の打撃を強く受け,貿易収支が悪化した。それに70年代初めの大規模プラント輸入の延払い負担が重なり,75~76年以降,債務延滞問題が顕在化したのである。81年現在の北朝鮮の対外債務は中国,ソ連に約10億ドル,日本,西独,フランスなど西側諸国に20億ドルの計30億ドル程度である。貿易依存度が低い国なので,債務問題によってただちに国内の経済循環が崩壊するわけではないが,国際金融機関の低利長期融資から遮断されている条件のもとでの外債負担が,経済発展の一つの制約要因となっていることは確かである。しかし,84年に入って金日成主席のソ連・東欧訪問を契機に先進技術導入にも意欲を示し,9月には〈合営法〉を施行して,資本主義諸国の企業との合弁にも道を開いた。
資本主義国の自由やきらびやかさはないが,貧富の格差がなく,最低限の生活は社会的に保障され,福祉政策のゆきとどいた清潔,簡素な落着いた社会相である。労働者の平均賃金は80年現在月90ウォン(公定レートで換算すると約12600円)程度と一見ひじょうに低いが,米や住宅など生活必需品はほとんどただに近い廉価で供給される反面,耐久消費財や奢侈(しやし)品はひじょうに高価であり,生活水準を単純に数字で比較することは不可能である。徹底した管理価格制度で,例えば農民から1kg当り0.62ウォンで買い上げた米が消費者に0.08ウォンで配給されている。価格差は財政負担で埋められるわけだが,財政収入の大部分は国営企業からの利益金でまかなわれており,所得税制は74年までに全廃されている。換言すれば高生産性の国営企業の高い収益が国家財政を通じて広範に再分配されているのである。
社会団体としては職業総同盟や農業勤労者同盟,社会主義勤労青年同盟などの全国的な大衆団体があるが,労働党の指導に対して相対的独自性をもつものではなく,むしろ〈速度戦〉運動など生産性向上運動をおもな活動内容としている。社会保険は国費でまかなわれ,男子60歳,女子55歳に達すれば老齢年金が支給され,勤続すれば賃金に加算される。医療,教育はすべて無償である。すでに無医村はなく,また医師には担当区域制があって予防医療に力を入れており,その徹底ぶりは日本からの訪朝者を驚かせている。
教育制度は67年に9年制義務教育,75年以後は〈全般的11年制義務教育〉が実施されており,後者の内容は,就学前義務教育(幼稚園)1年,人民学校4年,中学校6年(中等班4年,高等班2年)である。その上に金日成総合大学をはじめとする4~6年制の大学と3年制の高等専門学校,2年制の教員大学などが並存しており,大学の上には研究院(3~4年),博士院(2年)がある。技術教育も重視しており,中等教育段階では全生徒が1種類以上の技術を習得することが必須とされている。また,肉体労働と精神労働の差の止揚をめざす工場大学の制度もある。基礎科学研究は52年に創設された朝鮮民主主義人民共和国科学院が一元的に統括してきたが,64年に社会科学部門が分離して社会科学院という別機関となった。またほかに政務院各部・委員会傘下に工業科学院,農業科学院,医学科学院などの応用研究機関がある。文学,芸術の基本的方法は社会主義リアリズムで,抗日武装闘争や朝鮮戦争に題材をとったものが多かったが,近年では金日成をたたえるものが多く,また例えば映画では《春香伝》や義士安重根,また収集された民間伝承に題材を求めた歴史ものも作られている。新聞,雑誌では労働党機関紙・誌の《労働新聞》《勤労者》,政府機関紙の《民主朝鮮》などがおもなもので,通信社としては朝鮮中央通信社がある。単行本では金日成の著作や党の方針を解説した出版物が最も大部数で刊行されている。子供の漫画では国防ものと空想科学ものが目だって多い。スポーツは一般にはサッカー,陸上,スケート,卓球などが盛んだが射撃,重量挙げなどの種目にも強い。なお,80年代に入り,平壌蒼光通りに高層建築のチュチェ思想塔(170m),建坪10万m2,収蔵能力3000万冊の人民大学習堂(大図書館)など巨大な記念物の建造が相次いでいる。
日本からみての北朝鮮は,正式国交関係はおろか領事館業務も開かれていない世界中でほとんど唯一の国として,とり残されている。この状態は,冷戦期の〈封じこめ〉戦略の延長に,65年以後の日韓体制による牽制が働いた結果で,いまだに戦後責任の処理も未済である。こうした日本政府側の姿勢により,日朝間の交流は,もっぱら野党・民間の友好団体・個人の努力にゆだねられてきた。在日本朝鮮人総連合会(1955年結成,略称朝鮮総連)が果たしている仲介的役割も大きい。50年6月日朝協会の発足,53年11月大山郁夫らの訪朝(日本人として戦後はじめて),55年2月南日外相の対日関係改善を求める声明などにみられるように,日朝交流は日中国交回復運動と平行して,50年代には順調な進展を示していた。特に59年8月に,在日朝鮮人帰還協定(これにより84年までに約9万3000人が帰国)が両国赤十字社間で調印をみたことは,半ば公的な接触として特筆される。しかし,65年の日韓条約はこの動きを中断させる役割を果たし,以後〈日中〉と〈日朝〉の軌跡は大きくちがってくる。1971~72年段階にはやや〈雪解け〉的な局面もみられたが,外部条件の悪化により,その後は再び個別的な交流の拡大の歩みも遅々たるものとなっている。北朝鮮からの入国は,63年2月の世界スピードスケート選手権大会への選手の入国を皮切りに,特に71年以後スポーツ,文化等の領域では徐々に拡大されているが,公的人士の入国には日本側がなお大きな制限を課している。在日朝鮮人の祖国自由往来は,65年に墓参の老人のケースを認めて以後,不許可が続いたが,70年ころから緩和され,最近では朝鮮大学校をはじめ民族学校生徒の修学旅行なども実現している。貿易は民間の日朝貿易会を窓口に進められてきたが,70年代初頭のプラント輸出にともなう技術者入国や輸銀融資についての日本側の拒否や共和国の債務問題(1976年顕在化)などのため,困難が多い。77年に締結された日朝漁業協定は82年の期限切れ以後中断されていたが,韓国の全斗煥大統領訪日後の84年10月,再締結された。しかし,日本政府の消極的姿勢とも関連して依然として北朝鮮は不自然に〈近くて遠い国〉でありつづけている。
→朝鮮
執筆者:梶村 秀樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
北朝鮮と略称される。朝鮮半島の北半部に位置する社会主義国家。首都は平壌(ピョンヤン)。1948年9月,北朝鮮人民委員会を母体として,38度線の北側に金日成(キム・イルソン)首相を首班とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。48年憲法では首都はソウルとされた。建国当初はソ連の強い影響下にあったが,50年代中頃に金日成体制が確立し,60年代には対ソ,対中自主路線が強調された。72年の憲法改正で,金日成は共和国主席に就任し,「南朝鮮革命」を通じた祖国統一をめざしたが,80年の労働党第6回大会以後,一国家二制度の「高麗(こうらい)民主連邦共和国」創立を目標に掲げた。94年に金日成主席が死去し,長男である金正日(キム・ジョンイル)が後継者として登場した。98年の憲法改正では,共和国主席とその補助機関である中央人民委員会が廃止され,最高人民会議常任委員会よりも上位に国防委員会が創設され,金正日が委員長に就任した。経済的には,重工業優先の計画経済が破綻し,90年代にはマイナス成長に陥った。95年以後食糧危機が深刻化した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
朝鮮半島北部に位置する社会主義国家。朝鮮の38度線以北は日本降伏後ソ連の占領下におかれ,ソ連から帰国した金日成(きんにっせい)らが中心となって臨時人民委員会が組織された。1946年以後農地改革・産業国有化を実行し,48年南朝鮮の大韓民国の樹立に対抗して人民共和国の成立を宣言した。朝鮮戦争で徹底的に破壊されたが,自力更生路線を推進し,58~59年には土地共有化を完成した。60年代の終りからチュチェ(主体)思想を唱導して社会主義憲法を制定。89年の東欧での社会主義国家の消滅,また金日成の死後も金正日さらに金正恩を中心に独自の社会主義路線を保持している。首都ピョンヤン(平壌)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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