自伝という言葉は新しいが,その由来,起源はすこぶる古い。英語のautobiographyが,現在各国で通用する呼び名の原語とほぼいえるようで,これは19世紀初頭にようやく使われ出した。しかし,5世紀の神学者,アウグスティヌスの《告白》は,その切実な内面性と描写力によって卓抜な宗教的自伝であり,1世紀のユダヤの軍人ヨセフスの《自伝》もまた,みずからにふりかかった汚名をそそぐことを目ざした自己弁護型の自伝の先駆にほかならない。さらに古く,中国の司馬遷の〈太史公自序〉があり,また古代の碑文,遺言などの中に自伝の発端を探り出すことも十分に可能だろう。自身の過去をふり返って,思い出を語り,また書きとめるというのは,実はきわめて常凡な人間的行為にすぎない。ただふしぎなことに,こうしたあたりまえで自然な振舞が,いわば文化的・文学的に公認されるまでに,ひどく手間がかかった。自伝の多くは,長く原稿のまま残され,後世が発見するという形で公刊されたもので,もともと秘められたもの,私ごとの性格が濃い。ヨーロッパで,自伝の源流が,宗教的な告白に存したというのも,これとつながる事情で,至高の神に向かうときはじめて,人は安んじて,内なる秘めごと,裸の私をさらけ出すことができた。裏側からいえば,率直な自己告白のためには,神の語りかけというしかけが必要であった。宗教的な告白自伝が,おびただしく書き残されたのは,17世紀のイギリスとアメリカであるが,まさしく清教徒革命,宗教的移民の時代というばかりでなく,すでに懺悔を教会の儀式としてとりこみ,制度化していたカトリック国と違って,告白への衝動を満たすためには,信仰日記や自伝がぜひ必要であった。すでに17世紀末には,信仰自伝の形をとりながら,実は自身の恋愛や武勲などを描いたものが現れ,18世紀に入ると,こうした世俗化の傾向がいっそう濃化して,詐欺師,悪漢の自伝から,カサノーバの《回想録》のような,快楽性あふれる性的自伝までものされるに至る。もちろん歴史家のギボン,アメリカの万能人的実務家フランクリンの自伝のような,いわば価値ある生涯の記録も出ているが,内なる秘めごと,裸の私の定着を目ざす傾向と,自身の業績の確認という意向とがからみ合い,重なり合う所に生まれたのが,ルソーの《告白録》,ゲーテの《詩と真実》という自伝文学の最高峰であろう。こうした動きが,詩や小説にも波動を及ぼし,また流入したのが19世紀から現代に至る趨勢といってよい。
この点注目に値するのは,日本の自伝的伝統の根深さとその特質である。早くも平安朝に女流日記という形の優秀な自伝の輩出を見たばかりか,江戸時代にも山鹿素行,新井白石,松平定信などの武士をはじめ,町人学者の鈴木牧之,歌舞伎俳優の中村仲蔵,放浪僧の金谷上人など,幅広い階層にわたる自伝の輩出がみとめられる。しかも,ヨーロッパの自伝と異なり,その多くは,宗教,政治の色彩は希薄で,私生活に密着し,日常性が強い。これはやがて近代の私小説に受け継がれてゆく特色で,日本の根強くユニークな文学現象といえる。
執筆者:佐伯 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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