北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の二代目の最高指導者。2月16日、父・金日成(キムイルソン)、母・金正淑(キムジョンスク)(1917―1949)の長男でロシア・ハバロフスク近郊生まれ。1941年生まれという説もある。北朝鮮の正史では、中朝国境の聖地・白頭山(ペクトサン)にあった抗日パルチザン密営で生まれたとされ、正統性が強化されている。金日成、金正淑とともに「三大将軍」の一人とされる。
1964年金日成総合大学卒業、卒業論文は「社会主義建設における郡の位置と役割」。1965年金日成のインドネシア訪問に同行。朝鮮労働党組織指導部、宣伝扇動部で経験を積み、芸術分野にも力を注いだ。1974年2月党中央委員会第5期第8回総会で「主体(チュチェ)偉業の偉大な継承者」に推戴(すいたい)され、党中央委員会政治委員(現在の政治局委員)に就任した。1980年10月第6回党大会で初めて公式の場に姿を現し、党中央委員会政治局常務委員、書記、中央軍事委員となった。1983年6月訪中。1991年12月党中央委員会第6期第19回総会で朝鮮人民軍最高司令官に就任した。1992年4月共和国元帥。1993年4月最高人民会議第9期第5回会議で国防委員会委員長となる。
20年間の後継準備期間を経て、1994年7月に金日成が死去したが、それからすぐに党や国家の最高ポストに就任することはなく、「3年の喪」ののち1997年10月党総書記に推戴された。1998年9月実質的な「国家の最高職責」に格上げされた国防委員長に再推戴され、旧ソ連・東欧社会主義体制崩壊に伴い国内経済が疲弊した「苦難の行軍」を克服すべく、軍事優先の「先軍政治」と同時に経済建設を進める「強盛大国」ビジョンを掲げる。複数回にわたる鉄道移動による中国、ロシア訪問のほか、平壌(ピョンヤン)において2000年6月、2007年10月に南北首脳会談、2002年9月、2004年5月に日朝首脳会談を実現した。2002年9月の日朝首脳会談では、首相小泉純一郎に対して日本人拉致の事実を認めて謝罪している。
2008年夏に健康悪化説が出てから後継者問題が表面化する。2009年4月再推戴された国防委員長職が改正憲法で正式な「最高領導者」となった。2010年9月の第3回党代表者会で総書記に再推戴されるのと機を同じくして、三男といわれる金正恩(キムジョンウン)を大将・党中央軍事委員会副委員長として公式化。2011年12月17日「心筋梗塞(こうそく)」により死去したことが翌々日に発表された。2012年2月に共和国大元帥称号が授与され、4月には「永遠の総書記」「永遠の国防委員長」となり、改正憲法の序文でその業績がたたえられた。
金日成死去までの呼称は「親愛なる指導者同志」、その後は「偉大な将軍様」が一般的である。誕生日は「光明星節」とされ、金日成誕生日と同様に「民族最大の名節」に位置づけられている。成恵琳(ソンヘリム)(1937―2002)との間に長男・金正男(キムジョンナム)、高勇姫(コヨンヒ)との間に次男・金正哲(キムジョンチョル)、三男・金正恩、長女・金与正(キムヨジョン)が、実妹に金慶喜(敬姫)(キムギョンヒ)(1946― )がいる。
[礒﨑敦仁 2020年2月17日]
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1942~2011
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の最高指導者であり,朝鮮労働党総書記,国防委員会委員長,人民軍最高司令官などを兼務。1942年2月,金日成(キム・イルソン)と金正淑(キム・ジョンスク)の間に生まれた3人の子供の長男としてハバロフスク郊外で誕生。64年に金日成総合大学を卒業し,労働党書記局組織指導部,中央委員会宣伝扇動部に勤務。その後,秘密裏に73年に党書記,74年に中央委員会政治局委員に選出され,金日成の後継者として「三大革命小組」を指導。80年の労働党第6回大会では,党中央委員会の政治局常務委員,書記局書記,軍事委員会委員に就任し,金日成に次ぐ党内第2の地位を確保した。また,91年に人民軍最高司令官に就任し,92年の人民軍創建60周年に際して元帥の称号を獲得した。94年の金日成主席の死後,97年に朝鮮労働党総書記,98年に新憲法のもとで改めて国防委員会委員長に就任し,「軍事優先政治」を実践。2001年に金大中(キム・デジュン)大統領を平壌(ピョンヤン)に招待し,南北首脳会談を開催した。
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「キム・ジョンイル(金正日)」のページをご覧ください。
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…60年代中ソ論争以後は自力更生の旗印を鮮明にし,70年代にはチュチェ(主体)思想を唱道している。80年の労働党6回大会では,彼の前妻の子である金正日(1942‐ )が公式に党中央委政治局筆頭常務委員に選任され,91年人民軍最高司令官,93年国防委員会委員長に就任,〈代をついだ革命〉の方向といわれている。金日成没後3年をへて97年10月,朝鮮労働党総書記に就任した。…
…1930年代中国東北で展開された抗日武装闘争の革命伝統を受けつぎ,朝鮮労働党をひきいる金日成を建国以来の指導者として,自主独立の姿勢で一貫してきた。94年の金日成没後,金正日を中心とする後継者体制を築きつつある。〈北朝鮮〉と略称されることが多い。…
※「金正日」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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