川久保町(読み)かわくぼちよう

日本歴史地名大系 「川久保町」の解説

川久保町
かわくぼちよう

[現在地名]伊勢崎若葉町わかばちよう

川岸かし町から西へ、広瀬ひろせ川右岸にある両側町。江戸時代後期に開かれた新しい町。「伊勢崎風土記」附録に享和四年(一八〇四)「伊勢崎の西界、広瀬橋の西より、連取村の東界に至るまで、肆店を開く。之を川窪街と号せり」とある。約九〇間の東西の町並で、現在も新地しんちともよばれる。町並の終末点から北へ上ると前橋道、南へ下ると本庄ほんじよう道で、西に向かうのは高崎道となり、伊勢崎町の重要な出入口であった。「伊勢崎町新古日記」によれば、元禄一三年(一七〇〇)の反別三町七反余、うち上田畑三反余・中田畑一町八反余・下田畑七反余・下々田畑七反余。


川久保町
かわくぼちよう

[現在地名]水口町秋葉あきば

かた町の東、東海道を挟んだ両側町。町の東端やま川が南北に流れ、南は野洲やす川、北は古城こじよう山に続く。現在町と称する。水口宿東見付の外にある。延宝七年地子赦免帳にみえず町場の拡大とともに町並を形成したと思われる。水口宿栄枯伝馬難立訳略記(水口宿文書)によれば、水口代官長野内蔵丞の時(慶長一六―二〇年)家を建てる者があったといい、慶長一〇年(一六〇五)東海道の道筋野洲川沿いから北に移されて後に開発が進んだことがうかがえる。


川久保町
かわくぼちよう

[現在地名]奈良市川久保町

押小路おしこうじ町の東、東南が高く西北が低い吉城よしき川の窪地にあたり、川窪とも書く。「奈良曝」に「町役十壱軒。押小路町の橋より東の町。此通りを西まて祇薗筋と云。此町ひがし行あたりに祇薗の社有」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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