日本歴史地名大系 「水口宿」の解説
水口宿
みなくちしゆく
〔沿革と規模〕
伊勢大路が通り、室町時代には宿村および市場として発達がみられた。嘉元四年(一三〇六)頃の成立という「如法寺殿紀行」に、伊勢へ抜けるため「みなくち」を過ぎたことが記されるのをはじめ、伊勢参宮道中の記録が多い。応永一〇年(一四〇三)一〇月、室町将軍足利義満が伊勢参宮の途次「水口」を通っており(吉田家日次記)、同二一年一二月には将軍足利義持が参宮の途次当地に宿泊し、「月影もこほれる水のみなくちに同じ宿かる夜半のさむけさ」と詠んでいる(室町殿伊勢参宮記)。また永享五年(一四三三)三月の将軍足利義教の宿泊も知られる(伊勢紀行)。一方、伊勢越ばかりでなく、伊賀に抜ける道もあったことが文明五年(一四七三)五月、一条兼良が美濃からの帰途
中世の当地の様子をよく知りうるものとして連歌師宗長の「宗長日記」があり、大永七年(一五二七)三月四日条に「甲賀水口といふ里は十町はかりつゝきて、昔御参宮の御所なともおもひ出られ罷すくる程に、此所関おほく門門より関々といふ声を聞て、水口に我やみゆらん門ことにせきよせきよともろこゑによふ」とある。当時の水口が町並をなし、宿泊施設などを備えていたことがうかがわれる。天文一〇年(一五四一)七月の美濃部・武嶋公事申合条々案(山中文書)に「水口市枡」、永禄六年(一五六三)六月一六日の伴村岡田地売券案(同文書)に「水口銭枡」の記載があり、当地を中心とした地域経済の成立が考えられる。
天正一三年(一五八五)には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報