川内名村(読み)かわちみようむら

日本歴史地名大系 「川内名村」の解説

川内名村
かわちみようむら

[現在地名]北川町川内名

現北川町の北部、五ヶ瀬川支流の北川上流に位置し、西境大崩おおくえ山東麓を水源とする祝子ほうり川が南東流する。豊後街道が通る。東は三川内みかわうち(現北浦町)熊野江くまのえ(現延岡市)など、南は長井ながい村と祝子村(現延岡市)、西は北方きたかた(現北方町)七折ななおり(現日之影町)、北は豊後国大野おおの藤河内ふじがわち村・小野市おのいち(現大分県宇目町)、同国海部あまべ仁田原にたはら(現同県直川村)など。慶長一九年(一六一四)七月延岡城に入城した有馬直純は、同年一〇月夏田久左衛門尉に対し知行三〇石の扶助を宛行っている(「有馬直純知行宛行状」夏田家文書)。翌二〇年二月の夏田久左衛門尉知行目録(同文書)によると、この三〇石は河内名と平岩ひらいわ(現日向市)のうちで各一五石であった。夏田氏は県土持氏の旧臣で当地を本貫の地としていたが、土持氏滅亡後は当地に土着し、江戸時代は代々庄屋役を勤めた。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)には高二四六石余とあるが、「藤原有馬世譜」に載る同年の指出では高四〇九石余となっている。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では高四〇九石余・内検高四八八石余。元禄五年(一六九二)延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高四〇九石余・新田高四二石余、ほかに出高として三一石余がある。日向国覚書には河内村とみえる。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳によれば高四〇九石余・新田高九八石余、うち前々より改出四六石余・拝領後改出九石余。天保四年(一八三三)の延岡藩領郷村高帳(内藤家文書)によれば高五二八石余で、うち前々改出新田高一五五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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