日本歴史地名大系 「河内村」の解説
河内村
かわちむら
寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高三五一石余。日向国覚書では高三五六石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚によると内検高四〇九石余。元禄一一年(一六九八)の万覚帳(甲斐家文書)では高四〇三石余。宝永七年(一七一〇)の高千穂一八ヵ村勘文一紙(矢津田家文書)によると田畠一一五町五反余・分米四〇〇石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳によると高三五九石余・新田高四四石余(うち改出一九石余)。同年の高千穂中万御蔵品納覚(佐保家文書)によると苧・渋・漆などを納めている。元禄一一年の前掲万覚帳では竈数一一〇(うち不役五)。文政一一年(一八二八)の宗門人別改帳(内藤家文書)によると人数六七三。村中心部の肥後へ向かう街道上に口屋番所が置かれた(正徳三年「御城并町在所々覚書」同文書)。
河内村
こうちむら
旭川右岸および
河内村
かわちむら
初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から土方領で、高一五二俵余、うち荒一二俵で、残高の四割が百姓得分。貞享元年(一六八四)から幕府領、以後元禄二年(一六八九)から同八年までの鳥居忠英領、同一一年から同一三年の水野勝長領の時代を除いて幕府領、享保七年(一七二二)から幕末まで加賀藩預地(七尾市史)。正保郷帳では高七六石余、田方三町二反・畑方一町八反余、免四ツ三分。
河内村
かわちむら
- 石川県:石川郡
- 河内村
石川郡の北東部に位置する。西は
河内村
こうちむら
笛吹川と
河内村
こうちむら
- 山口県:下松市
- 河内村
永正二年(一五〇五)二月二三日付大内義興の冷泉興豊宛の文書(「閥閲録」所収冷泉五郎家文書)に「周防国都濃郡河内郷内拾五石地
河内村
かわうちむら
河内村
こうちむら
三隅川中流の河岸段丘を中心に
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田方一九町四反六畝余・畠方一二四町六反余、分米六四四石一斗余とある。同一三年の検地帳によると田方一八町四反八畝余・畠方九二町八反一畝余、分米六〇六石八斗余のうち一〇石三斗余は永荒・牟田荒で、家数一九六、男一四三・女一〇六、馬四・牛二一、桑三〇・柿七・上蜜柑三があった。
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
- 佐賀県:鳥栖市
- 河内村
村域は
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
- 静岡県:下田市
- 河内村
河内村
かわのうちむら
- 愛媛県:八幡浜市
- 河内村
太閤検地の石高は二六七石三斗四升、耕地面積の比率は田四八パーセント、畑五二パーセントであったが、寛文検地では石高が一・二倍に増加し、田三〇パーセント、畑七〇パーセントに変化している。
河内村
あしがわちむら
河内村
こうずむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
河内村
こうちむら
- 三重県:鳥羽市
- 河内村
鳥羽湾に流入する
近世を通じて鳥羽藩領で
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
- 福岡県:豊前市
- 河内村
河内村
かわちむら
- 大分県:日田市
- 河内村
河内村
かわうちむら
北は
河内村
かわちむら
河内村
かわうちむら
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
河内村
さばごうちむら
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
- 茨城県:稲敷郡
- 河内村
郡の南端に位置し、北は新利根村、東は
明治二二年(一八八九)の町村制施行で、河内郡
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
河内村
こうちむら
村内に
河内村
かわのうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
- 福井県:鯖江市
- 河内村
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
河内村
こうちむら
- 兵庫県:加西市
- 河内村
河内村
こうちむら
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
千代川の北部の支流域にあり、東は
河内村
こうちむら
河内村
かわちむら
河内村
かわちむら
- 兵庫県:小野市
- 河内村
建久三年(一一九二)八月二五日の官宣旨案(浄土寺文書)に奈良東大寺領
河内村
かわのうちむら
河内村
かわちむら
河内村
あしごうちむら
河内村
こうちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報