河内村(読み)かわちむら

日本歴史地名大系 「河内村」の解説

河内村
かわちむら

[現在地名]高千穂町河内

田原たばる村の西にあり、南は五ヶ瀬川を挟み桑野内くわのうち(現五ヶ瀬町)、西は肥後国に接する。川内村とも記される。高千穂一八ヵ郷の一。文明一三年(一四八一)七月五日、河内飛騨守政歳は三田井惟房らとともに阿蘇惟秀・惟治に忠誠を誓う起請文を提出しているが、河内氏は当地の者と思われる(「河内政歳外十五名連署起請文写」阿蘇文書)。天文二二年(一五五三)一〇月吉日、田尻清右衛門尉は河内宣命職を与えられている(「大神親武・鎮武連署状」高千穂神社文書)

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高三五一石余。日向国覚書では高三五六石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚によると内検高四〇九石余。元禄一一年(一六九八)の万覚帳(甲斐家文書)では高四〇三石余。宝永七年(一七一〇)の高千穂一八ヵ村勘文一紙(矢津田家文書)によると田畠一一五町五反余・分米四〇〇石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳によると高三五九石余・新田高四四石余(うち改出一九石余)。同年の高千穂中万御蔵品納覚(佐保家文書)によると苧・渋・漆などを納めている。元禄一一年の前掲万覚帳では竈数一一〇(うち不役五)。文政一一年(一八二八)の宗門人別改帳(内藤家文書)によると人数六七三。村中心部の肥後へ向かう街道上に口屋番所が置かれた(正徳三年「御城并町在所々覚書」同文書)


河内村
こうちむら

[現在地名]御津町河内・宇垣うがき

旭川右岸および三谷みたに川下流の平地と同川上流の小盆地を含む津高つだか郡第二の大村で、枝村五ヵ村を有する。南は高尾たかお山・横倉よこくら山を隔てて菅野すがの(現岡山市)吉尾よしお村、北は花村はなむら山・あか岳・妙見みようけん山を隔てて宇甘上うかいかみ村・金川かながわ村と接する。中世、一帯には宇垣郷が成立していた。寛永備前国絵図および正保郷帳には宇垣村とあり、母谷ほうだに山条やまじよう本明ほんみよう寺・はら小田おたの枝村五ヵ村を有し、高一千五九五石余。宇垣村が河内村と改称された事情・時期は明らかでないが、遅くとも延宝三年(一六七五)までには改称されており(「御国中神社」池田家文庫)、また枝村の本明寺は貞享三年(一六八六)富谷とみたにと改称されている(撮要録)。「備陽記」によれば、本村の河内村は田畑三〇町六反余、家数六八・人数四八〇、池七。枝村の母谷は田畑二一町九反余、家数五九・人数三七五、池五。山条は田畑二九町一反余、家数四六・人数二六七、池五。富谷は田畑二三町六反余、家数四七・人数二九五、池五。原は田畑一七町八反余、家数二六・人数一七〇。


河内村
かわちむら

[現在地名]柳田村北河内きたかわち

町野まちの川支流の河内川上流部にあり、南は大箱おおばこ村、東は五十里いかり村、北西は四辻よつつじ峠を越え、当夜とや坂を下って深見ふかみ(現輪島市)に通じる。永正一五年(一五一八)六月二二日本願寺実如から下賜された阿弥陀如来絵像(光明寺蔵)に「町野庄内 河路村 釈空心」とある。

初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から土方領で、高一五二俵余、うち荒一二俵で、残高の四割が百姓得分。貞享元年(一六八四)から幕府領、以後元禄二年(一六八九)から同八年までの鳥居忠英領、同一一年から同一三年の水野勝長領の時代を除いて幕府領、享保七年(一七二二)から幕末まで加賀藩預地(七尾市史)。正保郷帳では高七六石余、田方三町二反・畑方一町八反余、免四ツ三分。


河内村
かわちむら

面積:七四・四二平方キロ

石川郡の北東部に位置する。西は鳥越とりごえ村、南は吉野谷よしのだに村、北西は鶴来つるぎ町に接する。北東は村の東端から北端にかけての奥三方おくさんぽう(一六〇一メートル)中三方なかさんぽう(一三〇六メートル)口三方くちさんぽう(一二六九・四メートル)といった白山山系の稜線を境に金沢市に接する。奥三方山西麓から流れ出して西流する直海谷のみだに川は、下折そそり付近からほぼ北流し、村の西端を北流する手取川に口直海くちのみ付近で合流。手取川沿いを国道一五七号が走り、村内は同川沿いのさん(吉岡・江津・福岡および昭和五〇年創設のふじが丘団地)と、直海谷川沿いの直海谷(口直海・中直海・久保・吹上・板尾・金間・下折・内尾・奥池)の二地域に大別される。昭和六三年(一九八八)段階で村域の九八パーセント強を山林・原野が占める山間の村。


河内村
こうちむら

[現在地名]石和町河内

笛吹川と鵜飼うかい川の氾濫原にあり、若彦わかひこ路が北部をほぼ東西に通る。東の小石和こいさわ村とは若彦路に沿って集落がほぼ隣接する。すぐ北にある今井いまい村とはもとは一村であったともいう(甲斐国志)。貞治三年(一三六四)二月一五日の一蓮寺寺領目録(一蓮寺文書)に河内とみえる。慶長古高帳では高五一五石余、幕府領。ほかに佐久さく大明神領七石余がある。寛永一〇年(一六三三)旗本新庄氏に一部が宛行われ、貞享―元禄期(一六八四―一七〇四)の川東領分並給人付帳(渡辺一若家文書)では高五五一石余のうち新庄領は五一石余。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷は小石和村と同じ。文化(一八〇四―一八)初年の家数四二・人数一五四、馬二(甲斐国志)


河内村
こうちむら

[現在地名]下松市大字河内

鷲頭わしず山およびその東の烏帽子えぼし岳の北方に広がる村で、切戸きりと川とその支流小野おの川流域に集落がある。北は生野屋いくのや山田やまだの両村、東は来巻くるまき村、西南は東豊井ひがしとよい村・西豊井にしとよい村に接する。徳山藩領。

永正二年(一五〇五)二月二三日付大内義興の冷泉興豊宛の文書(「閥閲録」所収冷泉五郎家文書)に「周防国都濃郡河内郷内拾五石地号地頭方在坪付別紙事、任冷泉五郎興豊約諾状之旨、玉信僧都進止、永不可有相違之状如件」とあり、河内郷と称している。


河内村
かわうちむら

[現在地名]神林村河内

山間のとびさわ影沢かげさわ荒沢あらさわなどの沢水を集めるひやつ川の右岸にある。西は桃川ももがわ村、北は大平おおだいら村。口碑によれば、雲上佐市郎の従臣斎藤綱重は追手から逃れて百姓となり、当村を開いたという。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃の色部氏年中行事(色部文書)には「河内」とみえ、四〇〇苅の田地をもつ百姓三人の役として、正月一一日に一〇籠、二月九日よりはつごもり炭、夏釜の年貢として一〇月まで五籠ずつ、一〇月のつごもりから一二月大年までは一〇籠ずつ、大年には四〇〇苅分の年貢分一二〇籠の炭を三人で上納することが決められている。


河内村
こうちむら

[現在地名]三隅町河内・井川いかわ

三隅川中流の河岸段丘を中心に西方寺原さいほうじばら上河内かみごうち・下河内・用田原ようたばらなどの平坦地があり、北は蘆谷あしだに村・向野田むかいのた村、西は向野田村、東は黒沢くろさわ村、南は下古和しもこわ村。嘉暦元年(一三二六)一二月一〇日の石見永安別符以下地頭職分文(吉川家文書)に「河内百姓名分 一方野先生名伍段小、畠参段大」「河内畠分 イテイカ下壱町各半分 同高畠参段各半分 同野尻伍段各半分 同庄久保壱町半分」とあり、河内は当地のことと考えられる。河内畠分のうちにみえる野尻のじりは当地の土地台帳にみえる野尻・野尻田のじりだ野尻沖のじりおきにあたると考えられるほか、河内畠分は当地西方の茶臼ちやうす(二九二メートル)山麓にあたるとも推測されている。また前掲地頭職分文には「河窪ノ田畠分」として「車田木船サコ 壱段六十歩一方半三十歩 同畠六反半内一方三反九十歩」の記述もあり、同じく当地の土地台帳に車田くるまだ・上車田の地名がみられ、当地付近に比定する説もある。


河内村
こうちむら

[現在地名]児玉町河内

身馴みなれ川の流域に位置し、北は下稲沢しもいなざわ村・中稲沢村・上稲沢村、東は元田げんだ村・小平こだいら村、南は不動ふどう(五四九・二メートル)を隔てて秩父郡野上下郷のがみしもごう(現長瀞町)。身馴川に沿って秩父への道が通り、沿道に下谷戸しもがやと勝沢かちざわ神子沢かんこざわ(神戸沢)新屋敷あらやしき寺山てらやま木戸きどという集落が点在する。「風土記稿」によると、当時の名主弥惣次の先祖次郎五郎が永禄年中(一五五八―七〇)にこの地を開墾したと伝える。弥惣次家は姓を木村と称し、系図一巻といくつかの先祖書(木村家文書)を残しているが、古くは坂上田村丸(田村麻呂)とその父苅田丸(苅田麻呂)を祖とし、近江源氏の系譜を引く者で、永禄、元亀(一五七〇―七三)の頃に武蔵に移ったという。


河内村
かわちむら

[現在地名]上対馬町河内

大浦おおうら村の西に位置し、入江(大河内湾)に臨む。西八町に枝村の狭河内さごうち(佐加布知の訓、左河内とも)がある(津島紀略)。浦の北側のきようくまに弥生時代後期の遺跡がある。天安元年(八五七)に島守立野正岑を襲撃した事件の首謀者とされる上県郡擬主帳卜部川知麻呂(「文徳実録」同年六月二五日条)と当地との関連は未詳ながら、河内の地名が古代にさかのぼりうる傍証ともされる。中世は佐護さご郡のうちで、応永二年(一三九五)二月九日の宗貞盛書下写(与良郷宗家判物写)に「対馬島ありつうかわち」とみえ、中尾(仲尾とも)四郎兵衛は当所の居屋敷を島主より安堵されている。同一二年「島内あふつらかわ地」に旅人(浪人)を居住させ、公事などを徴収するよう中尾四郎入道が命じられた(同年一〇月一三日「宗貞茂書下」町六拾人中御判形之写)


河内村
かわちむら

[現在地名]河内町河内

さんノ岳山系の末端部にあり、船津ふなつ村で海に注ぐ河内川の両岸に民家がある。北は船津村、南は近津ちこうづ(現熊本市)に接し、西は有明海に面する。暦応三年(一三四〇)二月三日の三池心応判四方指写(牛島文書)に「肥後国(田脱)郡之内池上内河内村大堺」として、「東ハ野出堺」「南ハ岩との平山堺」「西ハ伊倉の浜、海をさかふ、はし有」「北ハうあま堺」とある。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田方一九町四反六畝余・畠方一二四町六反余、分米六四四石一斗余とある。同一三年の検地帳によると田方一八町四反八畝余・畠方九二町八反一畝余、分米六〇六石八斗余のうち一〇石三斗余は永荒・牟田荒で、家数一九六、男一四三・女一〇六、馬四・牛二一、桑三〇・柿七・上蜜柑三があった。


河内村
こうちむら

[現在地名]鹿野町河内

鷲峰じゆうぼう村の南、河内川最上流域、鷲峰山南西麓に位置する。「因幡志」によると気多河内けたこうち・鹿野河内ともいい、村内は多くの谷々に分れる。東側に阿弥陀河内あみだこうち青木原あおきはら漆原うるしはら中村なかむら上谷かみや警固屋けごや矢原やばら、西に御堂河内みどうこうち、同所の下に向ひ谷むかいだに別所べつしよの一〇の集落がある。鷲峰村から河内村最北の矢原までは一三町、矢原から最南の阿弥陀河内までは二三町。拝領高は一四七石余、本免は五ツ七分。藪役銀六四匁三分が課せられていた(藩史)。「因幡志」では家数一二〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三一五石余、竈数一五二。


河内村
こうちむら

[現在地名]奥多摩町河内

はら村の西、多摩川上流の山間の村。南は檜原ひのはら(現檜原村)に接する。原村などとともに小河内おごうち四ヵ村の一で、小河内を冠して小河内河内村、または川内とも記された。田園簿では小河内村のうちで、元禄郷帳では小河内河内村として高七六石余。宝暦七年(一七五七)の漆年貢は二二九匁(「漆木増減書上」杉田家文書)。「風土記稿」には河内村として家数五三。畑地のほかは山林。小名は上原うえはら寺下てらした入間いるま馬渡戸またど・高洲渡場・真光寺しんこうじなど。

昭和三二年(一九五七)小河内ダム(奥多摩湖)の完成により河内・河内向こうちむかい川崎かわさき吾妻井あづまい地区が水没、現在峰谷みねだに川が奥多摩湖に注ぐ地にあたる。


河内村
かわちむら

[現在地名]鳥栖市河内町かわちまち河内町横井かわちまちよこい・同貝方かいかた・同転石ころびいし

村域は九千部くせんぶ山の山腹・山懐にわたり、大部分が山地。集落は大木だいぎ川の上流、山峡の奥に少し開けた盆地状地に立地する本村ほんむらと、里人が「向う谷」という西に峰一つ隔てた四阿屋あずまや川上流の谷に枝村の大谷おおたに・貝方・越道こいどうがあり、また都谷みやこだに谷頭に横井がある。いずれも谷底斜面に耕地をもつが、人家は田代たじろ町から、近くて四キロ、そこからさらに上流へ二キロにわたって小集落の形で散在する。標高は二〇〇―四〇〇メートル。


河内村
こうちむら

[現在地名]鳥取市河内

野坂のさか川の最上流部に位置し、毛無けなし(五七〇・五メートル)の南麓にあたる。「因幡志」は槙原まきばら村の支村小原こはら村から一二町奥で谷最奥とし、俗に野坂の河内谷とよぶとある。南東は岩坪いわつぼ村。拝領高は二三一石余、本免五ツ。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)では朱高二五二石余・生高三四五石余、物成一二九石余、山札銀一八匁・藪役銀五九匁が課されていた。生駒氏・山根氏・平井氏の給地があった(給人所付帳)


河内村
こうちむら

[現在地名]芸濃町河内

忍田おしだ村の西、南はきようヶ峰(八一九・三メートル)、北は錫杖しやくじようヶ岳(六七七メートル)、東は摺鉢すりばち(四六四・七メートル)、西は伊賀界の山塊などの山々に四周を囲まれ、これらを水源とする安濃あのう川が多数の支流を集めて東流する。その流路に沿って九つの小集落が点在する。「神鳳鈔」に「内宮河智御厨二斗、九十二月」とあるが、この御厨を河内村とは速断できない。


河内村
こうちむら

[現在地名]下田町河内

なか村の北、南流して下田湾に注ぐ稲生沢いのうざわ川中流の両岸に位置する。集落は志戸しど松尾まつお諏訪すわ湯原ゆばら角栗かどくりがある。天正一八年(一五九〇)一二月の河内村御縄打水帳(下田市教育委員会蔵)によると田畑一九町五反余、屋敷地一千一五七坪。江戸時代は初め幕府領、宝永五年(一七〇八)相模小田原藩領、延享四年(一七四七)再び幕府領、一部は文化九年(一八一二)に旗本大草領(高一七二石余)、残部の幕府領(高五〇石余)は文政二年(一八一九)沼津藩領となり幕末に至る(稲生沢村沿革誌・韮山町史)


河内村
かわのうちむら

[現在地名]八幡浜市川之内かわのうち

千丈せんじよう川上流域の山村。東は夜昼よるひる峠など四〇〇メートル級の山地に囲まれ、北は上郷かみごう村、南は田浪たなみ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「河内村 茅山有、小川有」と記される。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二六七石三斗四升、耕地面積の比率は田四八パーセント、畑五二パーセントであったが、寛文検地では石高が一・二倍に増加し、田三〇パーセント、畑七〇パーセントに変化している。


河内村
あしがわちむら

[現在地名]楠町大字芦河内

厚東ことう川の支流芦河内川の流域に集落をもつ山間の小村。東は如意寺によいじ、南東は木田きだ瓜生野うりうの(現宇部市)、南は吉見よしみ(現宇部市)、西は矢矯やはぎ今富いまどみ万倉まぐら、北は西吉部にしきべの各村に接する。萩藩領で舟木宰判に属する。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳、同一五年の検地帳ともに「芦河内」とあり今富・矢矯と合石で記載されている。寛永二年(一六二五)八月一三日付福原太郎兵衛家文書(「閥閲録」所収)によれば、芦河内の全三九七石余が毛利氏によって福原氏の知行地とされている。同一四年二月八日付の郡夫付立(「注進案」所収)に芦河内は三九七石と記される。


河内村
こうずむら

[現在地名]郡山市逢瀬町河内おうせまちこうず

片平かたひら村の西、奥羽山脈の東縁の山地と逢瀬川上流両岸の沖積原に立地。西境に額取ひたいとり(一〇〇八・七メートル)がある。同山を「万葉集」ほか多くの歌に詠まれた安積あさか山に比定する説がある。字西猫神にしねこのかみに建武三年(一三三六)銘の石造供養塔がある。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「河内 藤原祐春」とみえる。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に中郷のうちとして「河内 十五丁」とみえる。


河内村
かわちむら

[現在地名]畑野町飯持いいもち

小倉おぐら川が国仲くになか平野に流れ出る出口にあり、川の両岸沿いに南北に延びるやや細長い地。両岸は上流からかみノ橋(河内橋)高野こうや(腰前橋)穴釜あなごう橋の三本の橋で結ばれる。下流は三宮さんぐう村、上流は大久保おおくぼ村・猿八さるはち村。当村の元村は目黒町めぐろまち村の羽根沖はねおきにあったとされ、重立ちの二軒にその言伝えがある。元禄七年(一六九四)の検地では田二五町余・畑八町余(佐渡志)。「佐州巡村記」では戸口は三八軒・一五一人。真言宗豊山派真楽しんらく寺は小倉川の水源の一つに当たる飯出いいで山の管理をしていたが、昭和三六年(一九六一)に小倉ほか七ヵ字に譲渡している。飯持神社は祭神保食神。


河内村
かわちむら

[現在地名]栖本町河内

くら岳の北麓に位置し、北に動鳴どうめい(四九五メートル)山系が東西に連なる山間村。倉岳中腹に磨崖仏くら観音の霊場があり、天然の岩壁に梵字と素朴な蓮華文様が彫られ、長享元年(一四八七)の銘をもつ。中世栖本氏の領内で、北方の上津浦氏領内下津浦しもつうら(現有明町)はぎだいらから草積くさつみ峠を越えたところに位置するため、しばしば兵乱の地となった。「八代日記」弘治二年(一五五六)六月二九日条に「栖本ヨリ上津浦堺へ打出候(中略)合戦候て栖本衆十八人打取候、クサツミト云所歟」、永禄八年(一五六五)九月一三日条に「上津浦ヨリ、栖本之内河内ト云所ニ動候而八人打取、手火矢二ツ、兵具五十斗、如上津浦取候」などとみえる。


河内村
こうちむら

[現在地名]鳥羽市河内町・若杉わかすぎ

鳥羽湾に流入する加茂かも川の支流河内川に沿い、東に岩倉いわくら村、北に船津ふなつ村がある。「志陽略誌」に「舟津、河内、岩倉、松尾、白木是ヲ称加茂五郷」とある加茂五郷の一村である。

近世を通じて鳥羽藩領で答志とうし郡に属する。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高二〇二・六五八石のうち山年貢高三石が寛文四年(一六六四)から定引となっており、反畝不明の無地五・五八七石がある。


河内村
かわちむら

[現在地名]畑野町浜河内はまかわち

丸山まるやま村の東、東に多田おおだ村。多田川沿いに細長く延びた帯状の村。元禄七年(一六九四)の検地帳(浜河内区有)では田畑屋敷二六町二反余のうち田は一七町六反余。屋敷持四六人・部屋住み一一人。屋敷地の打木平うつぎだいらは、村の中心部から約一キロ半ほど奥にあり、江戸初期に開拓され四戸が住着いた。「佐州巡村記」では戸口は四七軒・二六八人。御林が字大なたれに一ヵ所ある。百姓林は四一ヵ所あり、製炭はじめ用材など山林依存の村であった。村内にはカリカケ平の地名も残るので、「はりかけ」(焼畑)も行われていたとみられる。多田村の街村部に近い通称江立えだちの集落は産土神を多田の諏訪神社とし、半数以上がまつさき本行ほんぎよう寺の檀家である。


河内村
かわちむら

[現在地名]豊前市川内かわち

四郎丸しろうまる村・鳥越とりごえ村の南に位置し、なか川の上流・中流域の丘陵地に立地する。川内とも記される(正保国絵図ほか)。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分・給人分、家数一四・人数三〇(うち百姓五・名子六)、牛五・馬一。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では免三ツ七分、高八三六石余、小物成は竹藪代・茶年貢が米六石余、薪札代銀四七匁余・鉄砲札代銀五匁、竈数八七、家数一〇六・人数五四一、牛馬五三、洞田とうでん(現曹洞宗)がある。


河内村
かわちむら

[現在地名]日田市小野おの 三河町みかわまち

花月かげつ川に注ぐ小野川沿いに集落が営まれ、西部に竜体りゆうたい(三四五・二メートル)がある。天正一二年(一五八四)三月の大友義統合戦手負注文一見状(石松文書)に「大肥河内」とあるのは当地辺りとみられ、同月二八日朝当所で敵を包囲している。同一七年の検地当時、堤鑑友の主従七人の墓が地内の大久保おおくぼ山にあったという(豊西説話)。慶長七年(一六〇二)の日田郡・玖珠郡御預米帳(佐伯藩政史料)に大豆二石余河内村五郎左衛門とある。慶長豊後国絵図に小野河内村七七〇石余とある。正保郷帳に川内村とあり、田高一〇一石余・畑高五一石余で、夜開やけ郷に属し、松山有とある。


河内村
かわうちむら

[現在地名]矢部町川野かわの

北は上河井野かみがわいの村、西は男成おとこなり村に接し、大矢おおや川右岸に集落がある。中央を日向往還が横切り、東へ当村貫原ぬきはるの貫原橋を渡って上河井野村貫原を経て阿蘇郡貫原村(現清和村)に至る。貫原橋は弘化四年(一八四七)に架設された石造眼鏡橋だが、現在は嵩上げされた県道小峰おみね川内かわうち線の十数メートル下に残る。応仁(一四六七―六九)頃とされる男成宮社頭注文(男成文書)に「河内よりハちやう屋の御まつり仕候、同まくさ是又春秋如此」とみえ、天文一二年(一五四三)には男成宮に神鳥目一〇〇文などを納めている(「土貢済物注文写」同文書)。大矢川が渓谷をなす絶岸上の要害の地、字城山しろやま勝山かつやま城跡がある。


河内村
かわちむら

[現在地名]中島町河内

羽咋はくい郡に属し、南西は西谷内にしやち村。風吹かぜふき岳・河内岳の山麓や谷間ごとに集落を形成し、須久保すくぼくち岩穴いわな二口出ふたくちで石畑いしなばたけ下出しもでの垣内がある。落人伝説をはじめ、伝説や民話が数多く伝承されている。釶打なたうち村のうちの北方にあたり、永禄二年(一五五九)九月二五日の釶打熊野権現奉加札(藤津比古神社蔵)に、米一俵「河内細谷両村ヨリ」とある。正保郷帳によると高五二一石余、田方二七町九反余・畑方六町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(河内区有文書)によれば高五四一石、免四ツ六歩、小物成は山役一二七匁・苦竹役五匁、鳥役三匁(出来)


河内村
かわうちむら

[現在地名]東洋町河内

白浜しらはま村の北西、甲浦かんのうら村の西に広がる村で、北は山地を境に阿波国宍喰ししくい、南は峠を越えて生見いくみ村に通じる。村域の大部分は山地で、河内川が東流、北の山地からは小池こいけ川が流れる。集落は両川の合流地付近にあるが、河内川の運ぶ土砂で水流の出口がふさがれ、平地に滞水して湿地帯が形成され、耕地を守るため排水に苦労してきた。

天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳では甲浦・白浜とともに「浅間庄甲浦」に含まれるが、「河内谷」などとして記される耕地の等級はほとんどが下または下々で、「川成クヱ残リ」の注記が多い。


河内村
こうちむら

[現在地名]沼津市西浦河内にしうらこうち

木負きしよう村の南西にあり、河内川の中・上流域を占める。東は重須おもす村、北西は久連くづら村、南は田方たがた大沢おおさわ(現修善寺町)など。古くは木負村と一村であったという(増訂豆州志稿)。応永三年(一三九六)七月二三日室町幕府は「三津庄内重須郷半分・河見・木負」などの地を上杉憲定に安堵している(「管領斯波義将奉書」上杉家文書)。この「河見」は河内のことと考えられる。北条氏所領役帳に伊豆衆の倉地氏の所領として「廿四貫文 豆州西浦河内山堂」とみえ、山堂は当地の小字である。江戸時代は初め幕府領、享保一三年(一七二八)陸奥棚倉藩領、天明二年(一七八二)沼津藩領となる。その後幕府領を経て、文政八年(一八二五)沼津藩領に復し、同藩領で幕末を迎えた(延享四年「内浦組村々知行高附書上帳」豆州内浦漁民史料、「日記要録」「韮山町史」など)


河内村
かわちむら

[現在地名]大山町河内

神通川支流熊野くまの川の源流部に位置し、東の段丘上は小原おはら村、西は蛇越じやごえ峠を隔てて大双嶺おおぞうれい村。地名は谷間の小平坦地の地形からきたものである。正保郷帳の高一〇石余、田方七畝余・畑方六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四三石、免一ツ五歩、小物成は山役二〇匁・炭竈役三九匁・鮎川役三匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)でも高・免に変化はない。


河内村
さばごうちむら

[現在地名]徳地町大字鯖河内

白井しらい岳の西側に位置し、東は巣山すやま(現都濃郡鹿野町)、北は三谷みたに、南西はくしの各村に接する山間村。村の北部山地から南流するしろたに川、南部に西流する上角こうづの川があり、その川岸に水田が開かれ、集落が点在する。萩藩領で徳地宰判に属した。

近世初期は中徳地の一部であったと思われ、「地下上申」(享保一二年分)で独立した一村として記され、総石高一千四七六石余(田方一千三一一石余、畠方一六三石余)、家数一七四、人数六〇一。村内の小村には鯖河内・上角・安養寺あんようじをあげる。同書の元文二年(一七三七)分では総石高一千四八九石余、家数一六六、人数五六九。


河内村
こうちむら

[現在地名]海山町河内

馬瀬うまぜ村の北西にあり、船津ふなつ川の上流大河内おおこうち川が北から南に流れる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「河内村」と記され、「紀伊続風土記」は地名の由来を「相賀川(船津川)南を流れ、大河内川西を流る、両川の間にあるより河内の名あり」と記す。相賀組に属し、寛政五年(一七九三)の大差出帳(同蔵)に家数一六、人数一一二、牛三。「作間稼に炭・縄・読木・長木類の伐出し、右駄賃付仕、薪柴仕出し引本浦売出し申候」と記される。約八町歩の新田があり、当村および下流の上里かみざと村への灌漑用水として、大河内川上流のウト谷より用水路約三五町が建設された。


河内村
かわちむら

面積:四四・四一平方キロ

郡の南端に位置し、北は新利根村、東はあずま村、南は利根川を隔てて千葉県印旛いんば郡・成田市・香取郡、西は龍ケ崎市・北相馬郡利根町に接する。全村平坦な低地で、村の北部を新利根川が東流し、集落は東西に走る県道沿いに多い。水田単作地帯の純農村で耕地の九〇パーセントは水田。灌漑は新利根川を中心として網目のようにめぐらされた水路を利用するが、現在は土地改良事業も進み用排水・沼池干拓・耕地整理はほぼ完成している。近年利根川沿いに畜産が興ったほか中小の工場も進出している。

明治二二年(一八八九)の町村制施行で、河内郡生板まないた(幸谷・生板両村、生板鍋子新田・角崎町歩・小林町歩・大徳鍋子新田・龍ヶ崎町歩が合併)源清田げんせいだ(古河林・手栗・羽子騎・源清田の各村、布鎌町歩・平三郎町歩・宮淵鍋子新田・猿島新田が合併)長竿ながさお(庄布川・長棹両村、下町歩・兵部新田が合併)、千葉県香取郡金江津かなえづ(十三間戸・平川・金江津・片巻の各村と下加納新田が合併)が成立し、同二九年に河内郡は信太しだ郡と合併して稲敷郡となる。


河内村
こうちむら

[現在地名]池田町河内・楢俣ならまた

足羽あすわ川の最上流、かんむり(一二五六・六メートル)に発する田代たしろ川、金草かなくさ(一二二七・一メートル)から発する楢俣川、だけ(一一八二メートル)を源とするだけたに川が集まり、河内川として北流する、標高三五〇メートルの谷奥に開けた小平地にある。南行すれば美濃国に至り、村内には口留(番所)が置かれていた。

村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高七九・二一七石が記される。「越前地理指南」には「三ケ所居ス」とあり、当時は河内村と後に分村した楢俣と田代の地に分居していたと思われる。


河内村
こうちむら

[現在地名]牟岐町河内

なか村の北に位置し、東流する牟岐川の流域に平野ひらの笹見ささみ西又にしまた奥谷おくだになどがある。奥谷を西に行くとヤレヤレ峠に至る。土佐街道筋で、東部の赤水あかみずに一里松が設けられていた。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「かうち」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「河内村」村内と考えられる「あか水村」が記される。正保国絵図では「牟岐之内 河内村」とあるほか、村内の「赤水村」も同様に記載される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では牟岐浦の枝村として河内村・赤水村がみえる。「阿波志」によれば、土田は陸田五町四反余・水田二一町二反余、家数八〇・人数三二九。


河内村
こうちむら

[現在地名]平塚市河内

東は松延まつのぶ村、西は根坂間ねさかま村、北は久松ひさまつ村、南は淘綾ゆるぎ山下やました村に接する。「風土記稿」によれば古くは根坂間村・公所ぐぞ村とともに坂間さかま郷と称され、三村の地は錯雑するとあり、当村は建武二年(一三三五)九月二七日の足利尊氏充行下文(県史三)にみえる「東坂間」にあたるとされる。同下文によれば中先代の乱後「東坂間」などが勲功の賞として三浦介平高継に充行われている。正保国絵図および元禄郷帳・天保郷帳には「河内坂間村」と記され、「風土記稿」には「河内村」とある。

近世は初め幕府直轄領、延享二年(一七四五)旗本高井・奥村領の二給。


河内村
こうちむら

[現在地名]春野町宮川みやがわ

堀之内ほりのうち村の北にある。南流する気田けた川中流左岸に東から熊切くまきり川が合流する近辺の河岸・谷間に位置する。川内村とも記される(正保郷帳など)。永禄一二年(一五六九)閏五月二〇日の徳川家康判物写(和田文書)気多けたのうちとして「河内」がみえ、渡辺三左衛門尉に「犬居之内本知行」の一所として安堵された。江戸時代は幕府領。享保年間(一七一六―三六)に一時掛川藩預所となる(享保郷村高帳)


河内村
こうちむら

[現在地名]山本町河内

財田さいた川の支流河内川流域に位置する。豊田とよた郡に属し、北は三野みの財田西さいたにし村。南北に細長く、河内川沿いの北・中部に平地が開け、南部は阿讃の山々が迫る。寛永国絵図に村名がみえ、山本郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高六一〇石余、うち新田一二四石余。同一八年の小物成は綿一八〇匁(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によれば村の広さは東西一三町二四間・南北一里一〇町。高六〇九石余、反別七一町六反余、うち畑一一町八反余・屋敷二町六反余。家数二一〇・人数九一八、牛六五・馬一〇。林三〇町九反余、うち居林二〇町三反余。


河内村
かわちむら

[現在地名]穴水町河内

山王さんのう川中流域山間にあり、東は宇留地うるち村、西は地頭町じとうまち(現富来町)より穴水往来の汁谷しつたに村に至る。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、南北なんぼくのうち河内村で棟役を負担する役屋は三〇間とある。享禄五年(一五三二)五月には、能登畠山氏の催促に応じた長衆九名のうちに河内兵衛がみえる(「穴水村・諸橋六郷長衆交名案」諸橋文書)。正保郷帳では高一四六石余、田方八町六反余・畑方一町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一九〇石、免五ツ三歩、小物成は山役九〇匁・炭竈四枚役一〇〇匁(三箇国高物成帳)


河内村
かわちむら

[現在地名]本巣町外山とやま、岐阜市外山

神海こうみ村の北東に位置し、山峡の谷間に集落がある。川内とも書き、中世には外山村に含まれた。応永一三年(一四〇六)四月二〇日の足利義満袖判御教書(大友文書)に外山村がみえ、鷲尾家領として隆右より隆敦へ譲られている。文安四年(一四四七)三月一七日の後花園天皇綸旨(同文書)で隆敦の領掌が安堵されている。


河内村
かわちむら

[現在地名]竹野町河内

御又おんまた村の西、竹野川上流域に位置する。天保七年(一八三六)までの領主の変遷は宇日うひ村に同じ。以後は幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一八八石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数四六・人数二五八、寺一・社二、牛一一。延享二年(一七四五)の人家牛船数書上帳(同文書)では家数四六・人数二四五、牛一八。


河内村
かわちむら

[現在地名]多賀町河内

向之倉むかいのくら村の東方にあり、西から下村しもむら中村なかむら宮前みやまえ山女原あけんばらの四集落がある。寛永石高帳に高一五九石余とある。元禄・天保両郷帳では河内下村三七石余・河内中村四四石余・河内宮前村三六石余・河内山女原村四一石余に分けて記される。元禄八年大洞弁天寄進帳も河内村とあり、男二〇五・女二二五、寺社方男五。明治七年(一八七四)四村が合併して河内村となる。宮前に浄土宗安養あんよう寺があり、寺伝によれば神護景雲三年(七六九)霊山開基、弘安二年(八一一)元安大師再興、時宗より転宗したという。


河内村
こうちむら

[現在地名]富山村河内

天竜てんりゆう川と漆島うるしま川の合流点にあり、この地域では最も早く開かれた地である。「熊谷家伝記」「関伝記」によれば、延元二年(一三三七)河内源氏の源満仲の後裔多田河内守綱秋が曾川そがわ(現豊根村)から当地に来て開郷し河内と名付けたという。なお元中元年(一三八四)には熊谷直秋が婿となって漆島川の上流に漆島を分郷したという。そのほか近世にも大尾などの枝郷を出している。

村内に諏訪すわ神社があり、天竜川から拾い上げた諏訪神社の神事用薙鎌を神体としたという。慶長一七年(一六一二)の鰐口銘に「信州大谷ノ内河内村大明神」とあって、この地域は近世初頭までは三河とも信濃とも判然としなかったらしい。


河内村
かわのうちむら

[現在地名]菊間町河之内かわのうち

高縄たかなわ半島の西部、霧合むごう川の上流に位置する。四方を数百メートルの山地に囲まれた山間盆地で、東は葛谷かずらだに(現玉川町)に接する。古くは海岸のはま村に対し、松尾まつお川上かわかみを併せて河之内と総称したが、松尾村が分れ、さらに慶長年間(一五九六―一六一五)に松尾村から川上村が分れたと伝える。明治二二年(一八八九)には再び三村が合した。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「河之内村 林有、芝山有」とみえ、村高は一七七石一斗七升四合である。


河内村
こうちむら

[現在地名]夢前町莇野あぞの

戸谷とだに村の北、菅生すごう川の上流域に位置し、西は宍粟郡三森みつもり(現安富町)。慶長国絵図に「かハち」とみえる。正保郷帳では莇野村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に独立して村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ莇野村」と注記され、高二一九石余。姫路藩主酒井氏時代の領内郷村高覚書(前橋市立図書館蔵酒井家資料)では本田高三三一石余・新田高五石余、免五ツ六分五厘、庄屋は三右衛門。天保九年(一八三八)の巡見使通行道順并答書(清瀬家文書)では犬米・諸役米・藪年貢米二石一斗余、草藁銀・諸役銀二二七匁余、家数一四九・人数六〇三、寺一、庄屋は嘉左衛門、庄屋添役は弥四郎であった。


河内村
こうちむら

[現在地名]南島町河内

神前かみさき湾へ注ぐ河内川の中流域に南北に細長く形成された谷間の集落。東は東宮とうぐう村、西は村山むらやま村・神前かみさき浦。慶長一三年(一六〇八)一〇月一三日の黒川主馬助正盛他三名連署覚書(竈方文書)には、竈年寄として「河内」の名がみえる。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では高五五石六斗余のうち田方五石六斗余・畑方四九石九斗余。明治二年(一八六九)の大指出帳(徳川林政史蔵)によれば戸口五八軒・三四七人。鉄砲六。煙草・茶・木綿を産する。


河内村
こうちむら

[現在地名]河野村河内

山王さんのう山の西方山中にあり、河野川が村の北端を曲流する。東は山王山を隔てて瓜生野うりうの(現武生市)、北西は赤萩あかはぎ村、南東は菅谷すげのたに村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では赤萩三ヵ村に含まれるが、同三年正月二六日付山立入約定書(宮川家文書)に「河内」とみえる。同年九月付越前府中郡在々高目録によれば、大谷刑部吉継の知行地。江戸時代は福井藩領で、正保郷帳によれば田方五石余・畠方一七石余。


河内村
こうちむら

[現在地名]清水市河内

炭焼すみやき村の北、興津おきつ川上流域に位置し、北は大平おおひら村、西は安倍あべ横山よこやま(現静岡市)など。年次は不詳であるが、四月二一日付興津美作入道宛今川範忠書状(「諸家文書纂」所収興津文書)に「興津河内関所」とみえ、甲州との往還に関が設けられていた。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後幕府領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(国立史料館本元禄郷帳・享保一六年駿府代官所村高帳・旧高旧領取調帳など)


河内村
こうちむら

[現在地名]鯖江市上河内かみこうち

河和田かわだ川上流の谷奥にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方一五四石余・畠方二六二石余。元禄郷帳以後さわ村が分村。天保郷帳では「川和田河内村」として一八四・五五四石。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄五年(一六九二)土岐頼殷領、正徳二年(一七一二)幕府領となる。


河内村
こうちむら

[現在地名]奥津町河内

吉井川左岸にあり、北はすぎ村、対岸は黒木くろぎ村。河内山に続く深い谷や黒木村にまたがる河岸段丘上にわずかの水田が広がるが、畑がちの村である。とくに地質学上秩父古生層が走るため、良質のこんにゃくの産地として知られる。正保郷帳に高二一九石余、うち田方九九石余・畑方一二〇石余とある。「作陽誌」では家数四一・人数二七二。


河内村
かわちむら

[現在地名]宇和町河内

宇和川最上流域の村で、南は東多田ひがしただ村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「河内村 茅山有」と記される。

太閤検地(天正一五年―文禄三年)の石高は七六三石二斗六升、耕地面積の比率は田七八パーセント、畑二二パーセントであった。寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が一六パーセント減少し、田六三パーセント、畑三七パーセントの比率に変化している。「墅截」による村柄は「上ノ中」、耕地は田が「上」、畑が「中」であり、水掛り「吉」である。


河内村
かわちむら

[現在地名]津幡町河内

河内谷かわちだに(刈安川)の右岸段丘上に位置し、西は坂戸さかど村。地名は河内国から鋳物師が来住したことに由来するといわれる。正保郷帳では高一四八石余、田方三町四反余・畑方六町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一七八石、免五ツ、小物成は山役一五五匁・野役二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。天明八年(一七八八)山崩れによる変地御償米代として六歩引免(享和二年「河北郡引免根帳」林文書)。文化八年(一八一一)の産物は牽売米一〇〇石ほど・蚕繭五〇貫目ほど・楮皮三〇束ほど・串柿四〇束ほど・赤柿五千ほど・渋柿八俵ほど・割木一千五〇〇貫目ほど・炭一五〇俵ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)


河内村
こうちむら

[現在地名]加西市河内町

河原かわら村の北、普光寺ふこうじ川源流域の小盆地に位置する。天台宗普光寺はこの盆地の奥にある。「和名抄」に記載される賀茂かも川内かわち郷の遺称地か。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳)。宝永四年(一七〇七)以降の領主の変遷は坂田の坂本さかたのさかもと村と同じ。正保郷帳によると田方三〇八石余・畑方八四石余。


河内村
こうちむら

[現在地名]阿智村大字伍和ごか

いり山の南麓、北は大鹿倉おおかぐら、東は栗矢くりや、南と西は波合なみあい(現浪合村)に接する。

元亀・天正(一五七〇―九二)の頃は、下条氏の領地であったが、慶長六年(一六〇一)宮崎筑後守忠政の所管。


河内村
こうちむら

[現在地名]東浦町河内

白山しらやま村の南にあり、西は小田おだ(現北淡町)。南北を山塊に挟まれた谷間に農地が階段状に分布し、小田村に源を発するうら川が南西から北東へと流れる。大永三年(一五二三)六月一日、八日市淡路屋善兵衛尉光家が中嶋北新左衛門に売却した淡路上郡の伊勢道者株のなかに、「河内ノ里一円」とある(「道者売券案」来田文書)。正保国絵図に村名がみえ、高二六二石余。


河内村
かわちむら

[現在地名]津奈木町千代ちよ

千代川の北部の支流域にあり、東は上門かみのかど村に接する。川内村とも書く。慶長五年(一六〇〇)一一月八日加藤清正が三ヵ条の禁制を河内村に出している(「加藤清正禁制」桑原文書)。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「津奈木村内川内村」とあり、地侍二人が記される。同一八年の津奈木村小村切高物成人畜御帳(同文書)に高七九石五斗余、田数四町七反四畝余・畠数一町五反一畝余、真綿一二匁・茶一一〇匁、女一一・男二二、うち地侍二、馬二・牛一が記され、正保三年(一六四六)の津奈木内小村切人畜改御帳(同文書)には女二〇・男三三、うち郡筒二、馬四がみえる。


河内村
こうちむら

[現在地名]勝田町河内

真加部まかべ村の南、梶並かじなみ川右岸に立地。「東作誌」に慶安元年(一六四八)真加部村より分村とあるが、正保・天保両郷帳には記載されない。元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村帳に村名がみえ、高一二五石余。「東作誌」では毛付高一〇四石余、戸数一六(うち高持一〇)、男三三・女二三。


河内村
かわちむら

[現在地名]仁多町河内

堅田かたた村の西、阿井あい川流域の谷間に位置する。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳には川内村とあり、大吉およし村・乙社おつこそ村と合せて高付され、高二五二石余、寛文四年(一六六四)の本田高二四四石余・新田高八斗余、当村のみの本田高一四七石余・新田高七斗余。


河内村
かわちむら

建久三年(一一九二)八月二五日の官宣旨案(浄土寺文書)に奈良東大寺領大部おおべ庄の四至として「南限河内村」とある。「播磨鑑」や「加東郡誌」は現在垂井たるいみやうえにある住吉神社が平安時代に創建され式内社とされる河内明神にあたり、そこからこの付近を河内里といったと述べている。


河内村
かわのうちむら

[現在地名]内子町河内

もとは「川ノ内村」と書いたが、天保九年(一八三八)「河内村」に改めることが公許された(江戸御留守居役用日記)。天保郷帳には「川ノ内村」と記す。小田おだ川支流ふもと川中流沿いの狭い河谷に立地する小村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「川ノ内村 茅山有」とある。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には、米・大豆・紙の土産が記され、宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)には、半紙漉七三人とある。


河内村
かわちむら

[現在地名]金沢市湯涌河内町ゆわくかわちまち

上荒屋かみあらや村の東、浅野川水系上流河内谷の谷間に位置する。南東、まがり村との境に魚留うおどめの滝がある。正保郷帳では曲村と併記され、二村合せて高一一七石余、田方六反余・畑方七町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高五九石・免四ツ、ほかに山役六三匁・炭役二八匁の小物成があった(三箇国高物成帳)


河内村
あしごうちむら

[現在地名]作東町芦河内

藤生ふじゆう村の北、吉野よしの川右岸に立地。対岸はなまず村。正保郷帳に村名がみえ、田五三石余・畑一一石。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一九石余・開高一五石余、村位は下。


河内村
こうちむら

[現在地名]福井市河内町

七瀬ななせ川上流域の狭小な谷間にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「山本之郷」に含まれると思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方四七石余・畠方九四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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