宮崎県北東端の市。2006年2月旧延岡市が北浦(きたうら)町と北方(きたかた)町を,さらに07年3月北川(きたがわ)町を編入して成立した。人口13万1182(2010)。
延岡市北東部の旧町。旧東臼杵郡所属。人口4389(2005)。北は大分県に接し,南東は日向灘に面する。主な集落は古江,市振,宮野浦,三川内で,近世を通じて延岡藩に属した。町域の大半は山地で占められ,山間部の中央を占める三川内地区には北川の支流小川が西流し,米作を中心にタバコ,シイタケ栽培など農林業が営まれる。リアス海岸をなす海岸部には古江などの集落が発達し,市振漁港を拠点に沿岸漁業が行われるほか,ハマチの養殖や水産加工業が盛ん。天然記念物指定のビロウの自生北限地高島をはじめ,海水浴場として知られる下阿蘇・大間海岸などがある海岸一帯は日豊海岸国定公園に属する。国道388号線が通じる。
延岡市西部の旧町。旧東臼杵郡所属。1970年町制。人口4680(2005)。県北部に位置し,東は旧延岡市に接する。古くは宇佐神宮領に属し,近世は延岡藩領であった。町域の大半は山林で占められるが,南部を東流する五ヶ瀬川沿いにわずかに耕地が開かれて,集落が点在し,高千穂鉄道線(2007~08年に全線廃止),国道218号線が通じる。主産業は農林業で,米,ミカン,肉用牛,シイタケなどを産する。近年,人口は減少を続け,過疎化が進むなかで,地場産業の育成や工場の誘致が図られている。西部には江戸時代に開かれた槙峰鉱山(黄銅鉱,黄鉄鉱)があったが,1967年に閉山した。北西部に比叡山(名),綱ノ瀬川上流部に鹿川(ししがわ)渓谷があり,観光地となっている。
延岡市北部の旧町。旧東臼杵郡所属。1972年町制。人口4478(2005)。南は旧延岡市,北は大分県に接し,長井,川内名(かわちみよう)の両地区からなる。近世を通じて延岡藩に属し,川内名の猪ノ市,八戸には関所が置かれた。町域の大部分は山林が占めるが,中央部を南流する北川沿いに耕地が開け,JR日豊本線,国道10号,国道326号線が通じる。農林業を主とし,米,シイタケ,肉牛などを産する。近年人口流出が続き,過疎化が進んでいる。西部には祝子(ほうり)川渓谷や大崩(おおくえ)山があって,祖母傾(そぼかたむき)国定公園に指定されている。南端には可愛(えの)岳がそびえる。
執筆者:萩原 毅
延岡市南部の旧市で,日向灘に面する。1933年市制。人口12万1635(2005)。市域の大部分は中生代四万十(しまんと)層の山地で,南部を五ヶ瀬川が東流して沖積地を形成する。海岸は日豊海岸国定公園に属する。全面積の70%が林野で,農耕地は5%。農業はふるわない。旭化成工業延岡工場が産業の中心で,1923年に日本窒素肥料のアンモニア工場が建設されて以来,関連部門の工場が造られ,49年旭化成に改称された。現在は薬品,火薬,化学繊維,合成繊維,食品,プラスチックなどの諸部門の工場があり,下請工業を含めると市の人口の半ば以上が旭化成に関係している。JR延岡駅近くに内藤氏の居城跡の城山公園,西部に祖母傾(そぼかたむき)国定公園に含まれる行縢(むかばき)ノ滝がある。また南方(みなみかた)古墳群は国指定史跡。五ヶ瀬川ではアユのやな漁が名物。JR日豊本線と高千穂鉄道(2007~08年に全線廃止)の分岐点で,国道10号線などが通じる。
執筆者:下村 数馬
日向国の城下町。古く県(あがた)と称したが,1692年(元禄5)藩主有馬氏のとき延岡と改めた。県は《延喜式》にみえる駅家で,古代英多(あがた)郷の中心地であったとみられている。1578年(天正6)この地を拠点として威勢をふるった土持氏が滅びたのちは,大友・島津両氏の支配を経て,豊臣秀吉の九州征伐後高橋元種が入封した。江戸時代延岡藩主はしばしばかわり,1747年(延享4)磐城の平より内藤氏が入って廃藩置県にいたった。城下の整備はまず高橋氏が五ヶ瀬川,大瀬川河口の三角州を南町,中町,北町の3町に町割りすることで始まり,ついで有馬直純が新たに芝町,紺屋町,博労町をつくった。このとき田の字形の旧町に丁の字形の新町が加わって城下の町並みは〈町〉の字を形成したが,その後有馬康純が大瀬川原に柳沢(やんざ)町を加設したことで町数は計7町となった。町役として別当,乙名が置かれた。
執筆者:上原 兼善
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
宮崎県北部、日向灘(ひゅうがなだ)に面する城下町、工業都市。1933年(昭和8)市制施行。1936年伊形(いがた)、東海(とうみ)の2村、1955年(昭和30)南方(みなみかた)、南浦(みなみうら)の2村、2006年(平成18)東臼杵(ひがしうすき)郡北方(きたかた)、北浦(きたうら)の2町、2007年同郡北川(きたがわ)町を編入。古代郷名に英多(あがた)の記載があり、県(あがた)と称されたが、江戸初期に県城を延岡城と改め、これが市名となった。五ヶ瀬(ごかせ)川、北(きた)川、祝子(ほうり)川などの流域を占め、河口には砂嘴(さし)が発達し、北東部はリアス海岸を成す。北部は山岳地帯で大分県と接し、延岡平野の北西部は行縢山(むかばきやま)、可愛岳(えのだけ)の険しい花崗(かこう)岩山体が連なる。JR日豊(にっぽう)本線、国道10号、218号、326号、388号が通り、東九州自動車道の延岡ジャンクションで九州中央自動車道を分岐する。国指定史跡南方古墳群が市の南部にあり、荘園(しょうえん)名では県荘(あがたのしょう)、岡富(おかとみ)荘などの地名が残る。中世から戦国にかけては土持(つちもち)氏の支配下にあったが、大友(おおとも)氏に滅ぼされたのち、島津(しまづ)氏を経て豊前(ぶぜん)の高橋(たかはし)氏が入封した。その後、有馬(ありま)、三浦(みうら)、牧野(まきの)、内藤(ないとう)と領主が移り変わった。領地は県北から豊後(ぶんご)にまたがり、7万石であった。城下町は五ヶ瀬川と大瀬(おおせ)川の間の川中島にあり、城跡はその中の孤立した丘陵城山(しろやま)に位置した。1923年(大正12)日豊本線開通とともに日本窒素肥料の工場が立地、以降化学工業都市として発展した。現在は旭化成(あさひかせい)として化学繊維や薬品などの工場があり、また大規模複合産業団地の造成が進んでいる。1964年(昭和39)日向(ひゅうが)市などと新産業都市の指定を受け、1994年(平成6)には宮崎県北地方拠点都市地域となった。県北の中心として商業も盛んで、商店街は今山八幡宮や今山大師の門前町として発展した。島野浦(しまのうら)、土々呂(ととろ)、市振(いちぶり)はイワシ漁などが盛ん。五ヶ瀬川中流部、三須(みす)、岡元(おかもと)のアユ簗(やな)漁も知られる。観光地は行縢滝(むかばきのたき)や日豊海岸国定公園など。面積868.02平方キロメートル、人口11万8394(2020)。
[横山淳一]
『芦谷新一編『延岡大観』(1960・日向日々新聞社延岡支社)』▽『『延岡市史』(1963・延岡市)』▽『『延岡市史』(1983・延岡市)』▽『『延岡市史 市制六十周年記念十年史』(1993・延岡市)』
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