川崎要害跡
かわさきようがいあと
前川村の中心集落、川崎宿のすぐ北側の丘陵上にあり、北辺を東流する北川に画される。標高二〇一メートル、比高一八メートルの平山城で、慶長年間(一五九六―一六一五)砂金実常の築城といい(柴田郡誌)、臥牛城・前川城ともよぶ。「貞山公治家記録」によれば、慶長五年「柴田郡前川邑中内城主」であった実常は最上勢への援軍として馬上三〇騎を引連れ最上へ参陣したとみえるが、これは前川本城に拠ったものと思われる。同一〇年、初代藩主政宗による野上堰の開削で水利の便が図られたのちに当要害が築かれ、同時に城下の町割もされたと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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