前川村(読み)まえがわむら

日本歴史地名大系 「前川村」の解説

前川村
まえがわむら

[現在地名]小田原市前川・国府津こうづ四―五丁目・酒匂さかわ七丁目

南は相模湾に臨み、東は羽根尾はねお村、北は上町かのまち村、西は国府津村に接する。海沿いを東海道、北を大山道が通る。弘治二年(一五五六)九月一四日の北条家朱印状(県史三)には「本光寺領下中村百貫文之内、就風損前川分拾八貫文之半分九貫文同八貫弐百文十分一、合拾七貫弐百文被指置之由」とあり、小田原城内にあった本光ほんこう寺の寺領下中しもなか村一〇〇貫文のうちに前川分一八貫文が含まれ、風損のため年貢が免除されている。また天正一二年(一五八四)三月二日の北条家裁許印判状(「戦国大名北条氏の研究」所収)によると

<資料は省略されています>

とあって、五郎左衛門と、その塩場を預かっていた与五右衛門が争い、北条氏は与五右衛門が人足を調達して製塩を行うこと、さもなければ塩場を五郎左衛門に返すことを命じている。


前川村
まえかわむら

[現在地名]川崎町前川

蔵王山東麓に位置し、村域は東西に細長い。東は足立あしたて(現村田町)小野おの村、西は熊野くまの岳頂上を境に出羽国村山むらやま宝沢ほうざわ(現山形市)など、南東は刈田かつた平沢ひらさわ(現蔵王町)、南は同郡円田えんだ村・みや(現同上)、北はきた川を挟み川内かわうち村など。熊野岳を水源とする碁石ごいし川の支流前川が中央を東流する。中心集落の川崎は川崎要害の館下町で、また笹谷ささや街道の宿駅でもあった。同街道は川崎宿で仙台城下へ東進する道と、南下して奥州街道宮宿へ通じる道とに分岐した。西方山間部には青根あおねなどの温泉がある。一六世紀前半のものと思われる小野・砂金の日記(留守文書)に「まいかハ、二万三千三百かり、此内に 惣さへもん右馬助の田、二千九百かり とらす、はたけ百八十一貫三百地」とみえる。


前川村
まえかわむら

[現在地名]八幡町前川

岡島田おかしまだ村の南にあり、東は南平沢みなみへいざわ村、南は境興屋さかいこうや(現酒田市)。天正六年(一五七八)一二月一五日、観音寺かんのんじ城主来次孫四郎は武藤義氏から八八貫文余を与えられたが、うち二三貫文の地は「前河」にあった(「武藤義氏充行状」別集奥羽文書纂所収文書)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五六一石余、寛永元年庄内高辻帳では高六二〇石余。ほかに正保三年(一六四六)開発、慶安二年(一六四九)高入の組頭新田一石余があり、この新田は明暦二年(一六五六)五石余、享保九年(一七二四)七石余となる(「土目録」飽海郡誌)


前川村
めーがーむら

[現在地名]玉城村前川まえかわ

富名腰ふなくし村の南東、雄樋ゆーひ川の左岸に位置し、東は具志頭ぐしちやん間切新城あらぐすく(現具志頭村)。絵図郷村帳や琉球国高究帳に村名の記載はなく、「琉球国由来記」に村名がみえる。間切集成図では当村の辺りに識名しちな村と記され、識名村の集落は雄樋川の西側に描かれる。北西方の具志頭間切境に石川山があり、同山と識名村集落の間に「樋川」と記される。「球陽」尚敬王二四年(一七三六)条によると、それまで当村集落は「嶺地」にあって往来の便が悪かったことから、同年「仲地原」に移転している。「玉城村誌」によると、旧地の「嶺地」は糸数いとかずグスクの南西麓にあたる地(通称山川堂)であったという。


前川村
まえかわむら

[現在地名]川口市前川一―四丁目・上青木かみあおき六丁目・南前川みなみまえかわ一―二丁目・前上町まえかみちよう上青木西かみあおきにし四丁目・前川町

上青木村の西に位置し、北側を古芝ふるしば川が南東流し、北端を芝川が東流する。田園簿では前河村とみえ、田五八一石余・畑一二五石余で、幕府領。その後一時旗本黒田領となったというが、元禄一六年(一七〇三)知行替えにより幕府に返納している(寛政重修諸家譜・風土記稿)。以後幕府領として幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)


前川村
まえかわむら

[現在地名]金浦町前川

赤石あかいし川下流南側、東は大竹おおたけ村、北は金浦村、西は赤石村、南は塩越しおこし村(現象潟きさかた町)に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保にかほ郷の一村として村名がある。

慶長七年最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となり、寛永元年(一六二四)仁賀保七千石家領、同八年天領となり庄内しようない(現山形県)酒井氏預領。同一七年本荘藩領となった。


前川村
まえかわむら

[現在地名]山南町前川まえがわ

北は牧山まきやま川を隔てて北和田きたわだ村、東は佐治さじ(加古川)を隔ててなか村。正保郷帳に村名がみえ田高一七九石余・畠高九八石余、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)までの領主の変遷は南嶋みなみじま村に同じ。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本織田領の相給地。「丹波志」によると旗本織田領、高は変わらず家数五五。


前川村
まえかわむら

[現在地名]三郷市さかえ

長沼ながぬま村の西に位置する。西はさき村、北は三九さんく村。田園簿ではさき村の内に含まれていたと思われ、元禄郷帳には当村は「三九村之内ニ在」と注記される。三九村より分村した時期は不明だが、天保郷帳では一村として高付され高九四石余。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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