川越城跡(読み)かわごえじようあと

日本歴史地名大系 「川越城跡」の解説

川越城跡
かわごえじようあと

[現在地名]川越市郭町

長禄元年(一四五七)上杉持朝の命により家臣太田道真が築いたとされる平山城。初雁はつかり城・霧隠きりがくれ城ともいう。川越台地の北東端に位置し、西から北は赤間あかま(高沢川・東明寺川とも)が外堀の役割をし、東方は湿地帯で、その東を入間いるま川・荒川などが流れるという自然の要害の地であった。江戸時代には江戸城の出城のごとく重要視され、歴代川越藩主は幕府の重臣・譜代大名から任命された。なお中世には河越城と記した。

〔上杉氏時代〕

長禄元年に築かれた当城の築城者については「鎌倉大草紙」では扇谷上杉持朝、「永享記」では持朝が隠居していた「(仙)波」の館を移建したとある。「河越記」「北条五代記」などは持朝の家宰の太田道真(資清)、「太田家記」などは道真の子道灌(資長)、「松陰私語」では道真・道灌父子としている。享徳三年(一四五四)一二月に勃発した享徳の乱に際し、古河公方の攻撃に備える防衛線の要として岩付いわつき(岩槻)・江戸の諸城と同時期に築かれたものである。以降、政真・定正・朝良・朝興・朝定と扇谷上杉家の拠点であった。なお幕府は古河公方に対するため、長禄元年足利政知を伊豆堀越ほりごえ(現静岡県韮山町)に遣わし(堀越公方)、渋川義鏡が補佐していた。寛正三年(一四六二)政知が持朝の所領を没収したため、古河公方方に寝返るとの噂がたった際、将軍足利義政は持朝に所領を安堵して慰留するよう政知に命じ(三月六日「足利義政御内書写」足利家御内書案)、新たに河越庄を預け置いて(一二月七日「足利義政御内書写」同御内書案)、対古河公方防衛線の崩壊を防いでいる。応仁元年(一四六七)持朝が当城で没し、文明五年(一四七三)政真が古河公方成氏との五十子いかつこ(現本庄市)での戦いで敗死して定正が家督を継いだ。同九年五十子在陣中の定正は長尾景春の乱によって太田道真らとともに上野国に退き、当城を太田資忠・上田上野介に守らせた。翌一〇年一月成氏と定正らの和議が成立し、定正は道灌とともに当城に戻った(以上、同一二年一二月二八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書ほか)。定正は同一八年太田道灌を謀殺し、当城に曾我兵庫頭を置き、山内上杉顕定との対立を深め、長享二年(一四八八)六月比企郡須賀谷すがや(現嵐山町)で戦った(松陰私語)。明応三年(一四九四)顕定との対陣中に定正が急死し(「石川忠総留書」内閣文庫蔵)、跡を朝良が継いだ。永正元年(一五〇四)九月朝良は北条早雲と結び、古河公方足利政氏と顕定との連合軍を破ったが、援兵を得た顕定軍に当城を包囲され、翌年三月顕定と和睦し、養子朝興に跡を譲り江戸城に隠退した(四月二三日「上杉顕定書状写」佐竹文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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