改訂新版 世界大百科事典 「左派エスエル党」の意味・わかりやすい解説
左派エス・エル党 (さはエスエルとう)
Partiya levykh sotsialistov-revolyutsionerov
ロシア革命期の革命政党。エス・エル党の左右分裂は第1次大戦に対する態度に端を発している。1917年革命の過程で党主流は臨時政府を支え,土地奪取を願う農民の志向と対立したが,これを批判する左派はボリシェビキの十月革命に支持を与えるにいたり,党中央より除名された。12月3~11日(ロシア暦11月20~28日)この人々は左派エス・エル党結党大会を開いた。ナタンソンのような老幹部のほか,スピリドーノワ,カムコフB.D.Kamkov,コレガーエフA.L.Kolegaevら若い世代が中心となり,首都,バルチック艦隊,カザン,ウファ,ハリコフなどがその拠点であった。12月22日(ロシア暦12月9日),ボリシェビキの求めに応じて,コレガーエフ(農業),シテインベルグI.Z.Shteinberg(司法),プロシヤンP.P.Prosh'yan(郵便・電信)らが人民委員会議(内閣)に入った。この党は憲法制定会議の解散にも同意を与えたが,1918年3月ドイツとのブレスト講和問題が大詰を迎えると,党の主流は調印拒否,革命戦争論の立場をとった。講和批准ののち,人民委員会議に加わっていた閣僚を引き揚げ,下野した。春から初夏にかけて食糧問題が深刻化し,ボリシェビキ政権が食糧独裁路線を打ち出すと,労働者を農民にけしかけるものとして強く反発し,対ドイツ戦争の中での労農の一体化に活路を求めて,1918年7月6日,反乱を起こした。ドイツ大使を殺害し,自派の武装部隊を動かして電信局を占拠し,アピールを各国に打電した。この一種の武装デモは翌朝からの鎮圧作戦でつぶされ,開催中の第5回全ロシア・ソビエト大会代議員中30%を占めた第二党たるこの党は非合法化され,指導者は逮捕された。この行動に批判的であった人々は,革命的共産主義者党Partiya〈revolyutsionnykh-kommunistov〉とナロードニキ共産主義者党Partiya〈narodnikov-kommunistov〉をつくり,のち共産党に合流した。
→エス・エル党
執筆者:和田 春樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報