日本大百科全書(ニッポニカ) 「カザン」の意味・わかりやすい解説
カザン(Elia Kazan)
かざん
Elia Kazan
(1909―2003)
アメリカの演出家、映画監督、作家。トルコのイスタンブールに生まれる。両親はギリシア人で、4歳のとき一家はアメリカに移住。エール大学で演劇を学び、1932年、スタニスラフスキー・システムを演技の基本として、社会意識と芸術性の両立を標榜(ひょうぼう)するグループ・シアターGroup Theatre(1931~1941)に参加、舞台監督や俳優としての経験を積んだのち演出に専念する。劇団解散後、ソーントン・ワイルダーの『危機一髪』(1942)の演出でブロードウェーに進出し、以後テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』(1947)や、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』(1949)などの名作を次々と手がけ、心理的リアリズムと称される心理に鋭く切り込むきめの細かい人物造形によって、アメリカ演劇界を代表する演出家としての地位を確立した。1947年には、多くの優れた俳優を輩出することになるアクターズ・スタジオActors Studioの設立に加わり、1960年代前半には、リンカーン・センター・レパートリー劇団Lincoln Center Repertory Theatreの演出家も務めている。
映画界との関係もすでに1930年代中ごろには始まっていたが、『ブルックリン横町』(1945)で監督デビューし、『紳士協定』(1947)でアカデミー監督賞、作品賞を獲得した。さらに『欲望という名の電車』(1951)、『革命児サパタ』(1952)、『波止場』(1954、アカデミー賞受賞)、『エデンの東』(1955)、『草原の輝き』(1961)など多くの傑作を発表し、アメリカ映画界に一時代を築いた。1960年代以降は活動の中心を執筆に移し、自伝的小説『アメリカ アメリカ』(1962年刊、1963年映画化)、『アレンジメント』(1967年刊、1969年映画化)などを発表。なかでも、1950年代の赤狩りに際し非米活動調査委員会に協力した過去も含めて人生を総括した大部の自伝『エリア・カザン自伝』(1988)は大きな話題となった。1999年にはアカデミー賞の特別名誉賞を受賞したが、赤狩りに協力した過去への批判は根強く、ここでも賛否両論が巻き起こった。
[一ノ瀬和夫]
資料 監督作品一覧
ブルックリン横丁 A Tree Grows in Brooklin(1945)
影なき殺人 Boomerang!(1947)
紳士協定 Gentleman's Agreement(1947)
大草原 The Sea of Grass(1947)
ピンキー Pinky(1949)
暗黒の恐怖 Panic in The Streets(1950)
欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire(1951)
革命児サパタ Viva Zapata!(1952)
綱渡りの男 Man on A Tightrope(1953)
波止場 On The Waterfront(1954)
エデンの東 East of Eden(1955)
ベビイドール Baby doll(1956)
群集の中の一つの顔 A Face in the Crowd(1956)
荒れ狂う河 Wild River(1960)
草原の輝き Splendor in the Grass(1961)
アメリカ アメリカ America, America(1963)
アレンジメント 愛の旋律 Arrangement(1969)
突然の訪問者 The Visitors(1972)
ラスト・タイクーン The Last Tycoon(1976)
『木島始訳『アメリカ アメリカ』(1964・早川書房)』▽『村上博基訳『代役』(1977・早川書房)』▽『佐々田英則・村川英訳『エリア・カザン自伝』上下(1999・朝日新聞社)』▽『村上博基訳『アメリカの幻想』上下(ハヤカワ文庫)』
カザン(ロシア連邦)
かざん
Казань/Kazan'
ロシア連邦西部、タタールスタン共和国の首都。ボルガ川中流左岸、カザンカ(タタール語名カザン)川がボルガ川に合流する地点にある。人口108万7000(1996)。ボルガ中流部の経済、交通、文化の中心地の一つ。革命後、重工業が発達し、第二次世界大戦中には西部からの疎開工場ができて市の工業発展を助長した。主要な工業は、機械(コンプレッサー、熱測定機、歯科医療機械、ガスレンジ)、化学(有機合成品、写真フィルム、洗剤、合成ゴム)、軽工業(毛皮製品、皮靴、縫製)、食品(食肉、酪製品、菓子、ビール)、建設(プレハブ資材、れんが)などである。
タタールスタン共和国の教育、文化の中心地で、カザン総合大学をはじめ、航空、工科、農業、財政・経済、医科、獣医科、音楽の諸大学など、高等教育機関が多い。また、タタールスタン共和国博物館、カマル記念タタール・アカデミー・ドラマ劇場、オペラ・バレエ劇場、サーカス演技場、交響楽団などの文化施設が集中している。市街は南北に25キロメートルも延びており、ロシア人とタタール人がおもな住民である。クレムリン(城塞(じょうさい)、16~17世紀)、ペトロパブロフスキー寺院(18世紀)などの建築記念物がある。鉄道、ハイウェーの分岐点で、河港、空港があり、交通の要地でもある。
[中村泰三]
歴史
ブルガル人が13世紀後半にカザンカ川の中流に建設し、14世紀末にボルガ川近くに移された。モスクワ公ユリー・ドミトリエビチЮрий Дмитриевич/Yuriy Dmitrievich(1374―1434)の軍により破壊された(1399)。30~40年後同所に再建され、カザン・ハン国の首都となり(1445)、ボルガ川中流の商業都市として重要な地位を占めた。モスクワ大公イワン3世による攻略は失敗したが、1552年イワン4世により占領され、ロシア人の東方進出の拠点として急速に発展した。18世紀初めにラシャ工場、造船所(ピョートル1世により創立)などが設けられた。町の労働者も加わったプガチョフの乱では、反乱軍により町の大部分が焼かれた(1774)。19世紀初めに大学が開設され、なかばにはせっけん、皮革、亜麻(あま)紡績などの大企業がおこった。1880年代からロシア革命にかけて反政府運動の一中心地になり、1917年10月ソビエト権力が樹立された。一時反革命軍により占拠されたが、すぐに奪還された(1918)。20年5月、タタール自治共和国、1991年以降、ロシア連邦のタタールスタン共和国の首都となる。
[伊藤幸男]