巨摩郡(読み)こまぐん

日本歴史地名大系 「巨摩郡」の解説

巨摩郡
こまぐん

甲斐国の西部に南北に長く連なって広大な地域を占めた。郡域はほぼ現在の北巨摩・中巨摩両郡と南巨摩郡の富士川右岸地域、韮崎市および甲府市域のあら川以西にあたる。東を山梨・八代両郡に、北と北西を信濃国佐久さく・諏訪・伊那三郡、西と南を駿河国安倍あべ廬原いはら両郡に接していた。赤石あかいし山地や八ヶ岳などが国境を形成し、北西国境付近に源を発する釜無川が郡中を流れ下り、しお川・御勅使みだい川・笛吹川などを合せて富士川となり、東部郡境を形成しつつ河谷地帯を南下し、途中はや川などを合せて駿河に入っている。

〔古代〕

「和名抄」東急本国郡部などでは「巨麻」と記し、古代にはこの字が用いられた。なお郡域には現甲府市中心部が含まれ、また山梨郡内に飛地があったとする説も有力である。郡名の起りについては、駒説と高麗(高句麗)説とがあり、前者が有力であったが、近時関晃氏が上代特殊仮名遣によって駒説を否定し、高麗の「こま」から出たものであろうとしてから、これがほぼ定説となった。「続日本紀」霊亀二年(七一六)五月一六日条に「以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」とみえ、甲斐に高句麗からの渡来人が多かったことがわかる。甲府盆地の北縁に多い積石塚を彼らの墳墓とする説も強い。立郡の時期は明らかでないが、高句麗の滅亡(六六八年)の前後に大挙して亡命してきた人々の一部が移り住んだことは確かで、郡名は高句麗人によって開かれた郡であるためか、高句麗人の集落が郡の中心をなしていたためか、そのいずれかによる命名であろう。郡名の初見は、年紀の明確なものでは正倉院文書の天平宝字五年(七六一)一二月二三日付の甲斐国司解に「坤宮官廝丁巨麻郡栗原郷漢人部千代」とあるのがそれで、千代は坤宮官(皇后宮職)の廝丁(律令制で五〇戸に二人の割で徴発された仕丁の一人。ほかの一人を立丁といい、二人で一対をなしていた)で同郷人の漢人部町代が逃亡したので、その替りとして徴発されたものである。ただし正倉院宝物の一つ、太孤児面白裏に「(甲斐)国巨麻郡青沼郷物部高嶋調壱匹」の墨書銘がある(正倉院宝物銘文集成)。年紀の部分は欠けているが、この調は天平勝宝四年(七五二)四月九日の東大寺大仏開眼供養の際に演ぜられた舞楽の伎楽面を収納する袋の裏裂として使用されているから、天平勝宝三年を下限とする数年間のある年に貢納されたものと推定され、この墨書銘を巨麻こま郡の初見史料としてよいであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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