青沼郷
あおぬまごう
「和名抄」にみえる巨麻郡青沼郷の系譜を引く中世郷。観応三年(一三五二)九月二一日の藤原伎行・源遠信連署打渡状写(毛利家文書)に「甲斐国青沼郷」とみえ、郷内逸見甲斐入道跡が金子平内左衛門信泰に引渡された。金子氏は安芸国温科村(現広島市東区)の地頭職を相伝した一族であるが、信泰は観応の擾乱の際足利尊氏方の甲斐守護武田信武に従っていたらしい。
青沼郷
あおぬまごう
「和名抄」高山寺本に「青治」と記し、訓はない。流布本に「青沼」と記し、これも訓を欠く。
「日本地理志料」は、塩野の真楽寺(現北佐久郡御代田町塩野)は青沼山と号していて、寺に青沼(大沼ともいう)と称する巨池があるので、青沼という郷名の起源をこの地とし「塩野・馬瀬口・御代田・広戸・草越・池田・児玉の諸邑、豈其地ならん」とする。これによると、現在の御代田町のほぼ全域をさすこととなる。「大日本地名辞書」は「今小海、海之口、海之尻(現南佐久郡南牧村)などの地たるべし。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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