甲斐国(読み)カイノクニ

デジタル大辞泉 「甲斐国」の意味・読み・例文・類語

かい‐の‐くに〔かひ‐〕【甲斐国】

甲斐

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日本歴史地名大系 「甲斐国」の解説

甲斐国
かいのくに

現山梨県域を占める。東は武蔵国、南東は相模国、南・南西は駿河国、北西と北は信濃国に接する。南の駿河国境には富士山がそびえるほか、南西端富士川の流出地付近以外は四方を山々に囲まれる。

古代

〔なまよみの甲斐国〕

甲斐の語源については、山と山との狭間を意味する「峡」とするのが通説であったが、近時上代特殊仮名遣の研究によって、甲斐の「斐」がヒの乙類であるのに対し、峡(賀比・可比)の「比」はヒの甲類であり発音が合わないことがわかり、通説は成立しがたいことになった。西宮一民氏は新たにかひ説を提唱。「古事記」上巻に伊邪那岐命が黄泉国より逃帰り、持物を投捨てた時に生まれた奥津甲斐弁羅おきつかひべら神に着目し、甲斐は「交ひ」、弁羅は「り」つまり境界の意で、他界と現し国の交差する境界の神の意味であるとした。そして「万葉集」巻三不尽山ふじのやまを詠む歌にみえる甲斐国の枕詞「なまよみ」を半黄泉なまよみと解し、半黄泉国、黄泉への境界になっている国が甲斐国で、山隠る地勢を死者への国と認識したことにより命名されたとした(「万葉集全注」巻三など)。甲府盆地の実際の景観には合わないが、実は関祖衡の「新人国記」にも「按ずるに当国は、偏地の山中なり。殊に南に富士山おおうて、一円に気のこもれる所なり」とみえ、近世に至ってもなお他国人からは山隠る陰気な国として観念されていたのである。

〔甲斐国造とヤマト王権〕

甲斐の在地勢力は四世紀後半までにヤマト王権の支配下に入るが、その勢力はおそらく曾根そね丘陵の一角、現中道なかみち町に銚子塚ちようしづか古墳・大丸山おおまるやま古墳・丸山塚まるやまづか古墳など大規模な古墳を築造した人たちであったであろう。ヤマトの王権との関係は、王権を盟主とする連合政権の一員として位置づけられるが、銚子塚古墳が当時東国最大の規模をもつ前方後円墳で、副葬品が質量ともに優れ同笵鏡が含まれていることなどから考え、その被葬者は王権の有力かつ忠実な同盟者であり、ある時期ここが東国支配の拠点であった可能性も指摘される。「古事記」「日本書紀」の倭建命(日本武尊)の東征説話のなかで、酒折さかおり宮伝説が重要な構成要素となっているのも、そうした史実を反映しているものかもしれない。

しかしその後の一世紀、いわゆる倭の五王の時代に、ヤマトの王権の地方政権に対する優位の態勢は着々進み、ワカタケル大王(雄略天皇、倭王武)の時代には甲斐の支配者は王権への隷属性の強い甲斐国造へと変貌する。この間古墳は分布地域を拡散するが、急速に小規模化する。

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改訂新版 世界大百科事典 「甲斐国」の意味・わかりやすい解説

甲斐国 (かいのくに)

旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。

古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(甲府市,旧中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(笛吹市,旧御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。大化改新後,新しい国郡制に基づき甲斐国が建てられ,山梨,八代,巨麻(巨摩),都留の4郡が置かれた。当時の政治や文化の中心は甲府盆地の東部にあり,国府(笛吹市の旧春日居町国府,のち旧御坂町国衙に移る)や国分寺(同市の旧一宮町国分),国分尼寺(旧同町東原),一宮浅間(せんげん)神社(同町一ノ宮),古刹大善寺(甲州市,旧勝沼町)などいずれもこの方面にあった。また駅路は駿河国横走駅で東海道本路と分岐し,籠坂(かごさか),御坂の両峠を越えて国府に到達したが,この間加吉(加古の誤りか。山中湖村山中付近),河口(富士河口湖町の旧河口湖町河口),水市(未詳。旧御坂町黒駒付近か)の3駅があった。10世紀以後,甲斐でも各地に貴族や寺社の荘園が立てられ,国衙領を侵食していくが,12世紀の中ごろ,八代(やつしろ)荘をめぐって紀伊熊野神社と国衙との間に激しい衝突があり,裁判の結果国衙側が大敗するという事件も起きた(長寛勘文)。これら荘園や黒駒の伝統をもつ牧場地帯を根拠として甲斐源氏が勃興する。源義光の子義清・清光父子は,1130年(大治5)ごろ常陸国武田郷を追われて当国市川荘に土着し,さらに巨麻郡北部の牧場地帯へ進出した。清光の子や孫は国内の要地を占拠して,逸見(へみ),武田,安田,加賀美,小笠原,南部氏らを名のり,やがて天下の雄族へと発展した。とくに清光の子信義は武田氏の祖となり,子孫は甲斐源氏の棟梁として繁栄した。

甲斐源氏勃興のときは源平争乱期であった。1180年(治承4)信義は以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を奉じ,その子一条忠頼,弟安田義定ら一族を率いて挙兵し,富士川の戦で奇襲戦法によって平維盛の軍を敗走させ,その功で信義は駿河守護,義定は遠江守護に補任された。その後源頼朝の政権が強化されるにともない,甲斐源氏の地位は相対的に低下するが,木曾義仲追討,平家討滅等に転戦し,鎌倉幕府の創業に貢献した。源氏が3代で滅び,北条氏が執権となってからも幕府の御家人として重きをなした。とくに信義の子信光は政治的手腕にすぐれ,武田氏の基礎を築き,甲斐守護はその子孫が独占することになった。南北朝期には足利尊氏の信任の厚い武田信武と子信成,孫信春の3代が守護職を相伝したが,時勢を反映して国内情勢は不安定であった。その後信春の子信満は女婿上杉禅秀の乱に加わって敗死し,その子信重は国外流浪20余年にしてようやく帰国,守護職についた。応仁の乱前後からは,守護代や国人層の下剋上に苦しみ,また惣領をめぐって守護家一族間の骨肉の争いも激化し,そのうえ国外からは伊豆,相模を平らげた北条早雲の侵略を受けるなど,領国統一までにはなお苦難の時代が続いた。一方,都留郡には鎌倉時代に坂東平氏秩父氏の出である小山田氏が移り住み,この地方を支配した。中世の甲斐は文化の面でも鎌倉と関係が深く,著名な禅僧が入国したり,日蓮が身延山を開いたりした。臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(甲州市,旧塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。

 戦国時代の甲斐は武田信虎・信玄(晴信)・勝頼3代による領国統一時代である。信虎は1519年(永正16)居館を石和(いさわ)から躑躅(つつじ)ヶ崎(甲府市武田神社の地)に移して領国経営の中心とした。これが甲府(甲斐府中の略)の誕生である。信虎は甲斐を統一し,さらに信濃に進攻したが,功を急いで民心を失い,41年(天文10)追われて女婿の駿河守護今川義元のもとに退隠した。父のあとを継いだ信玄は,精鋭な軍隊と巧妙な外交政策を駆使して,まず信濃の大半を制圧し,次いで上野の西半分をおさえ,転じて駿河を攻略,さらに遠江・三河の数郡,美濃・飛驒・越中の一部にまで及ぶ広大な領国を形成した。信濃川中島をめぐる越後の上杉謙信との数度の合戦はとくに有名である。72年(元亀3),織田信長の打倒をめざして西上の途につき,遠江三方原に徳川家康の軍を大破,翌年三河に進攻したが,たまたま病あつく信濃駒場の地で雄図むなしく陣没した。軍政家信玄は民政家としても抜群の手腕を発揮した。甲州法度(信玄家法)の制定,寄親・寄子制による家臣団の統制,金山の開発,甲州金の鋳造,治山治水,新田開発と検地,伝馬制度の整備,税制・度量衡制の統一,産業の奨励など広範な分野で富国強兵策を講じ,さらに社寺の崇敬,学問文芸の愛好にまで意を注いだ。快川紹喜(かいせんじようき)を美濃から恵林寺に迎え,深く帰依したのはとくに有名である。また信玄堤のように今日まで恩恵を残しているものもある。信玄は後世甲州流軍学の祖とされたり,理想的民政家として偶像化された点もあるが,甲州人に与えた影響は物心両面にわたってきわめて大きい。今日も4月12日の命日の前後に,山梨県をあげての信玄公祭がにぎやかにくり広げられる。信玄のあとは勝頼が継ぎ,織田・徳川両氏に対抗したが,75年(天正3)5月,三河長篠に戦って大敗し,以後武田氏の勢威は地に落ちた。81年には新府城(韮崎市)を築いてここに移ったが,時すでにおそく,翌年には信濃路から織田軍,駿河路から徳川軍に攻め込まれ,3月11日天目山麓田野(大和村)で勝頼以下自刃してはて,名門武田氏は悲劇的な滅亡を遂げた。
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1582年武田氏が滅亡すると,甲斐は織田信長の臣河尻秀隆の支配をうけた。まもなく本能寺の変後起こった一揆により秀隆が誅滅されたあと,甲斐をねらう後北条氏との係争に勝利を得て入国した徳川家康は,平岩親吉を甲府城代に任命した。90年家康が関東に移されると羽柴秀勝が封ぜられ,翌年には加藤光泰にかわった。さきに家康の命をうけて親吉により着手されていた甲府築城の工事は光泰にうけつがれ,さらに93年(文禄2)受封,入国した浅野長政・幸長(よしなが)父子の時代に完成,城下町甲府の形成も進められた。甲斐国9筋(万力,栗原,大石和,小石和,逸見,武川,北山,中郡,西郡の各筋)2領(郡内領,河内領)の行政区画は89年伊奈熊蔵忠次の検地の時期に推定されているが,やがて江戸時代には地域区分として用いられるようになった。1600年(慶長5)関ヶ原の役後,浅野氏の転封によって甲府盆地を中心とした国中(くになか)3郡は,家康が再度親吉を甲府城代とし,03年徳川義直受封後もその任に当たらしめた。07年幕領となって武川筋,逸見筋在住の諸士による城番制がとられたあと,16年(元和2)徳川忠長が甲府城主となったが,32年(寛永9)除封されると再び甲府城番の交代制が行われた。61年(寛文1)徳川綱重が領知高14万4000石を笛吹川以西の山梨郡と巨摩郡にあたえられると(河西領),その地の給人は他へ移され,笛吹川以東の河東は幕府直轄領と旗本給地が入り組んだ。綱重から子綱豊(のちの家宣)が将軍綱吉の養嗣子として江戸城西丸に入るまで甲府家は43年間続いた。1704年(宝永1)柳沢吉保が山梨,八代,巨摩3郡を受封,子吉里が24年(享保9)転封するまで2代にわたって国中地方を領有した。これに対して郡内領(都留郡)は,1601年鳥居成次が谷村(やむら)城主に任ぜられたが,子成行が徳川忠長の事件のため家老として32年改易されると,幕領となって城番が置かれた。翌年から秋元泰朝・富朝・喬知3代が在封し,1704年以降幕領となった。幕府創設以来,郡内には譜代大名が配置され,国中には家門が封ぜられるか直轄領としての支配が行われ,また旗本領が分散する分封・配置がみられたのは,江戸に隣接する要枢の地として甲斐の政治的軍事的配慮にもとづくものであろう。24年甲斐は一円天領化され,甲府勤番支配と三分代官の支配下に置かれた。勤番支配は大手・山手に分かれて,配下にそれぞれ組頭以下勤番士・与力・同心が属し,幕府直属の兵力として甲府城の警衛にあたるとともに,町方役所が市中の民政をつかさどった。地方は甲府,上飯田,石和に設置された代官所の管轄下に置かれ,一時川田陣屋が置かれて四分代官となったこともあったが短期間で終わり,次いで上飯田陣屋が廃され市川大門に陣屋が設けられた。また46年(延享3)には三卿の田安領が一町田中に,一橋領が宇津谷(うつのや)(のち河原部(かわらべ))に陣屋を設けて成立,63年(宝暦13)下岩下(のち八幡北)に陣屋を置いた清水領が設定された。三卿領は国中3郡に分散して天領と入り組み複雑な支配形態をとった。その後一橋・清水両陣屋は取り払われ,明治維新まで存続したのは田安陣屋のみとなった。甲府では1864年(元治1)甲府町奉行が設置されて従来の勤番支配による町方兼務を解いたが,翌年にはその職制を廃し,さらに66年(慶応2)甲府勤番支配の制を廃して甲府城代を置くとともに再び町奉行をして町政をつかさどらせた。明治維新により68年(明治1)甲府,石和,市川の三分代官を改め三部知県事として甲斐府を置いたが,まもなく廃して三部郡政局とし,翌年甲斐府を甲府県と改めた。次いで70年には田安領を合して甲斐一国にまとまり,71年11月20日山梨県と改めた。

 近世初頭に実施された検地で甲斐の総石高を明示するのは,のちに慶長古高とよばれる大久保長安による検地(石見検地)で村数721ヵ村,石高23万8185石余であった。このうち郡内領は1594年(文禄3)浅野氏重の検地の結果,村数81,石高1万8418石余,その後1669年(寛文9)検地によって村数111,石高1万9625石余となった。国中3郡では寛文期に河西領と直轄領・給地が入り組んだ河東領において区々に施行され,さらに柳沢氏による部分的検地もあって,1756年(宝暦6)には甲斐全体で村数775,石高30万6077石と把握されている。山国である甲斐は土地利用の進んだ中心部甲府盆地に対して,諸川の扇状地や台地などでは郡内領の谷村大堰や峡北の徳島堰に象徴されるような規模の大きな堰の開削が寛永~寛文期(1624-73)に集中し,元禄期(1688-1704)には各地域の一般的農業生産の上に地理的条件にもとづいた特産物生産が展開した。農業生産力の最も豊かな甲府盆地東部の山梨,八代両郡の養蚕業は登せ糸生産として顕著な発展を示し,甲州街道(甲州道中)勝沼宿周辺では特殊果樹としてブドウ生産があった。これに次ぐ巨摩郡中部ではひろく綿作が行われ,両地域を中心に盆地周縁部にはタバコの生産地が点在した。市川大門と富士川河谷地帯にひろがる紙漉(かみすき)と原料であるコウゾ,ミツマタ生産はこの地域を特色づけ,郡内領では谷村を中心に運上場77ヵ村を拡散させる郡内絹が甲斐絹(かいき)として江戸・京大坂に知られた。周囲を山岳で他と隔絶された甲斐は,慶長年間の開削になる富士川水運が物資の搬出入をはじめとする運輸交通に果たした役割は大きく,鰍沢(かじかざわ),青柳,黒沢の3河岸は上り荷,下り荷の集散でにぎわった。陸路の中心は五街道の一つの甲州街道で,甲斐を東西に横断し信濃(長野県)下諏訪で中山道に合する。江戸・甲府間の旅程はほぼ2泊3日,江戸との諸商品の移出入は同時に江戸文化流入の道でもあった。甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は御坂(みさか)峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道(なかみち)往還は右左口(うばぐち)峠を越え精進(しようじ),本栖(もとす)の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。また富士川舟運に並行して,甲州街道韮崎宿へ結ばれる駿信往還その他があった。

 初期以来しばしば農民一揆が引き起こされているが,著名なものに1673年(延宝1)甲府家の検地による収奪強化を原因とし藩の内訌にもかかわった強訴があり,81年(天和1)郡内藩における19ヵ村代表の越訴も過酷な搾取に対する反対闘争であった。後期になると,1750年(寛延3)養蚕地帯の八代,山梨両郡惣百姓が新規運上に反対して運上請負人を打ちこわした米倉(よねぐら)騒動,92年(寛政4)田安領における反動政策と手代の不正を糾弾した54ヵ村越訴の太枡(ふとます)騒動,1836年(天保7)郡内領にはじまり甲府町方のほか国中地方の106ヵ村にわたる豪農・富商305軒を打ちこわし,甲斐国内を無政府状態と化した天保郡内騒動などがあった。

 近世を通して文化面での展開にとぼしいが,崎門派の加賀美光章と蘐園(けんえん)学派の五味釜川に学んだ山県大弐は江戸に出てのち著した《柳子新論》で知られる。廻国修行を発願し木食戒をもって各地に千体仏を刻んだ木喰行道の活動も有名である。幕府が設立した官学として徽典(きてん)館があるが,それは1796年(寛政8)ころ創設された甲府学問所に発し,1805年(文化2)大学頭林衡(たいら)の命名になる。また郷学としては石和代官山本大膳によって22年(文政5)に設置された由学館をはじめ,37年(天保8)の松声堂,42年の興譲館があいついだ。後期になってみられる地誌類には野田成方の《裏見寒話》(1752),萩原元克の《甲斐名勝志》(1783)があるが,幕府の内命をうけて1806年に着手され14年に完成した《甲斐国志》は最も基本的史料として代表的なものである。そのほか大森快庵の《甲斐叢記》(1848)や宮本定正の《甲斐の手振》(1850)などがある。甲斐4郡の総人口は1721年(享保6)の29万1168人が,86年(天明6)30万5934人,1872年(明治5)36万0068人という推移を示している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲斐国」の意味・わかりやすい解説

甲斐国
かいのくに

山梨県の旧国名。甲州(こうしゅう)。東海道の一国。国名は、周囲を山に囲まれたいわゆる山峡(やまかい)の峡の意に由来するという。成立年代は不明であるが、古くは山梨、八代(やつしろ)、巨麻(巨摩)(こま)、都留(つる)の4郡が設置された。官道として甲斐路は東海道本路の駿河(するが)国(静岡県)横走(よこばしり)駅から分岐して、国境の篭坂(かごさか)峠から御坂(みさか)峠を越えて八代郡にあった国府に達した。名馬の産地で聞こえた甲斐には平安時代、柏前(かしわさき)、真衣野(まきの)、穂坂(ほさか)の三つの御牧(みまき)が置かれて馬を貢上した。荘園(しょうえん)は969年(安和2)の市河荘が初見で、その後各地に展開した荘園を地盤に甲斐源氏が勃興(ぼっこう)する。1029年(長元2)に源頼信(よりのぶ)、ついでその孫新羅(しんら)三郎義光(よしみつ)が甲斐守(かみ)に任ぜられて甲斐源氏の基を開いたといわれるが、甲斐源氏の直接の祖となったのはその子義清で、後を継いだ清光は多くの男子を国内の要地に配した。鎌倉幕府創業期に甲斐源氏の果たした役割は大きく、信義を祖とする武田氏が以後甲斐の守護を世襲する。この間1274年(文永11)日蓮(にちれん)が身延(みのぶ)に入山し久遠寺(くおんじ)をおこした。戦国期、甲斐の領国統一に力を注いだ武田信虎は、1519年(永正16)居館を石和(いさわ)から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移し甲府を開府した。信玄(しんげん)は9か国に及ぶ版図を領して武田氏の全盛時代を現出したが、子勝頼(かつより)の代に1582年(天正10)織田信長に滅ぼされた。徳川家康の領有から一時豊臣(とよとみ)氏の勢力下で羽柴(はしば)秀勝、加藤光泰(みつやす)、浅野長政(ながまさ)・幸長(よしなが)父子が封ぜられたが、関ヶ原の戦い後、再度徳川氏の領するところとなり、江戸時代には国中(くになか)地方は徳川義直(よしなお)や忠長(ただなが)ら家門が受封、あるいは幕府領として推移し、ついで徳川綱重(つなしげ)・綱豊(つなとよ)父子、柳沢吉保(よしやす)・吉里(よしさと)父子が領した。都留郡(郡内領)には鳥居成次(とりいなりつぐ)、秋元泰朝(やすとも)から3代にわたる譜代(ふだい)小藩が設置された。都留郡は1704年(宝永1)から、1724年(享保9)には甲斐一円が幕府直轄領となり、甲府勤番支配と代官支配との下に置かれ、またその後三卿(さんきょう)領も設けられて明治維新に及んだ。特産物として著名なものに郡内織と甲州ブドウがあり、京都への「登せ糸(のぼせいと)」生産やタバコ栽培も盛んであった。交通運輸の要路としては甲州街道と富士川水運があった。江戸後期には甲府に官学として徽典館(きてんかん)が設立され、また幕府の内命に基づいて『甲斐国志』が編纂(へんさん)された。1868~70年(明治1~3)に甲府、市川、石和の3県から甲斐府、甲府県を経て、71年山梨県となった。

[飯田文弥]

『磯貝正義・飯田文弥著『山梨県の歴史』(1973・山川出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「甲斐国」の意味・わかりやすい解説

甲斐国
かいのくに

現在の山梨県東海道の一国。もと甲斐国造が支配。本居宣長は山の峡(かひ)と説いている。国府は現在の笛吹市春日居町,国分寺は同市一宮町。『延喜式』には山梨郡,八代郡,巨麻郡の 3郡がみえ,『和名抄』には郷 31,田 1万2249町余が記録されている。産物の甲斐絹はすでに『延喜式』にみえ古くから名高く,江戸時代には特に発展した。これと並んで牧馬も古代より盛んで,宮中の駒牽(こまびき)にも甲斐の馬は多く,黒駒の牧などは聖徳太子伝説とも結びついて特に有名。鎌倉時代,室町時代を通じ武田氏の支配が続き,甲斐源氏と称して,戦国時代には武田信玄を生み,その勢力はきわめて強かった。しかし,その子武田勝頼が天正10(1582)年織田信長と戦い,敗れて滅亡。江戸時代には徳川家康の九男徳川義直に次いで徳川秀忠の三男徳川忠長が入国,慶安4(1651)年には徳川家光の三男徳川綱重が甲府城主となって支配した。しかしその嫡子甲府宰相徳川綱豊(のちの徳川家宣)が 5代将軍徳川綱吉の世子として江戸城に入ったため柳沢吉保が入国,その子柳沢吉里が大和郡山に移ってからは天領となり,幕末にいたる。甲斐の金山は武田信玄の時代から採掘され,慶長年間(1596~1615),家康は大久保長安に支配させた。甲金とも甲州金ともいった特別の金貨があり,これは甲斐一国にかぎって通用するものであった。明治の廃藩置県に際しては,明治1(1868)年9月に府中県,市川県,石和県に分かれ,10月には甲斐府として合併,同 2年には甲府県となり,さらに同 4年に山梨県となる。

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百科事典マイペディア 「甲斐国」の意味・わかりやすい解説

甲斐国【かいのくに】

旧国名。甲州とも。東海道の一国。現在の山梨県。国名は峡(かい)の意という通説があるが,現在は否定的見解が強い。《延喜式》に上国,4郡。中世,源氏の一族武田氏が守護。近世初め江戸幕府が直轄領とし,一時柳沢吉保が封じられたが,また直轄領として甲府勤番を置き,幕末に至る。→甲府藩
→関連項目市河荘郡内騒動甲府[市]中部地方南部郷山梨[県]

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藩名・旧国名がわかる事典 「甲斐国」の解説

かいのくに【甲斐国】

現在の山梨県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府笛吹市御坂(みさか)町、国分寺は同市一宮(いちのみや)町におかれていた。平安時代は御牧(みまき)(朝廷の直轄牧場)、荘園(しょうえん)が多く、源頼信(みなもとのよりのぶ)の子孫が土着して甲斐源氏(げんじ)が勃興(ぼっこう)した。その流れをくむ武田(たけだ)氏が中世を通じて守護として勢力を伸ばし、戦国時代武田信玄(しんげん)のときに全盛を迎えた。関ヶ原の戦い後は徳川氏の領有となり、1724年(享保(きょうほう)9)以降は幕府直轄領となって幕末に至った。1868年(明治1)に府中(ふちゅう)県、市川(いちかわ)県、石和(いさわ)県に分かれたが、のち合併して甲斐府となった。1869年(明治2)に甲府(こうふ)県、1871年(明治4)に山梨県と改称。◇甲州(こうしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「甲斐国」の解説

甲斐国
かいのくに

東海道の国。現在の山梨県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では八代(やつしろ)・山梨・巨麻(こま)・都留(つる)の4郡からなる。国府ははじめ山梨郡(現,笛吹市春日居町)にあったが,平安中期には八代郡(現,笛吹市御坂町)に移ったと考えられる。国分寺・国分尼寺は八代郡(現,笛吹市一宮町)におかれた。一宮は浅間神社(現,笛吹市一宮町)。「和名抄」所載田数は1万2249町余。「延喜式」では調庸は布帛だが,中男作物として紅花・胡桃(くるみ)油・鹿脯(かのほしし)など。古代には甲斐の黒駒と称される良馬の特産地で,御牧(みまき)が設定され,平安時代には宮廷で駒牽(こまひき)が行われた。平安後期に甲斐源氏が勃興し,その一流武田氏が鎌倉時代以降,代々守護を独占した。戦国期には石和(いさわ)から躑躅ケ崎(つつじがさき)へ進出し,城下町として甲府を創建,信虎・信玄・勝頼の3代にわたり勇名をはせた。江戸時代には甲府藩とされ,譜代大名を封じたが,中期以降幕領となり,甲府勤番の支配となる。1868年(明治元)新政府軍が甲府城を占領,69年甲府県となり,71年山梨県と改称。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の甲斐国の言及

【筋】より

…このように小倉藩では郡と筋がいっしょのものとされるが,筋の呼称は藩主小笠原氏の信州統治時代に由来するといわれる。甲斐国では一国を万力(まんりき)・栗原・大石和(おおいさわ)・小石和・中郡・北山・逸見(へみ)・武川(むかわ)・西郡の9筋と,郡内領・河内(かわうち)領の2領に分けていた。筋という単位は戦国時代に見られ,2領が国人領であったことに由来するので,甲斐の筋は武田氏統治時代から行政単位とされたようである。…

※「甲斐国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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