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甲斐国 かいのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

甲斐国
かいのくに

現在の山梨県東海道の一国。もと甲斐国造が支配。本居宣長は山の峡(かひ)と説いている。国府は現在の笛吹市春日居町,国分寺は同市一宮町。『延喜式』には山梨郡,八代郡,巨麻郡の 3郡がみえ,『和名抄』には郷 31,田 1万2249町余が記録されている。産物の甲斐絹はすでに『延喜式』にみえ古くから名高く,江戸時代には特に発展した。これと並んで牧馬も古代より盛んで,宮中の駒牽(こまびき)にも甲斐の馬は多く,黒駒の牧などは聖徳太子伝説とも結びついて特に有名。鎌倉時代,室町時代を通じ武田氏の支配が続き,甲斐源氏と称して,戦国時代には武田信玄を生み,その勢力はきわめて強かった。しかし,その子武田勝頼が天正10(1582)年織田信長と戦い,敗れて滅亡。江戸時代には徳川家康の九男徳川義直に次いで徳川秀忠の三男徳川忠長が入国,慶安4(1651)年には徳川家光の三男徳川綱重が甲府城主となって支配した。しかしその嫡子甲府宰相徳川綱豊(のちの徳川家宣)が 5代将軍徳川綱吉の世子として江戸城に入ったため柳沢吉保が入国,その子柳沢吉里が大和郡山に移ってからは天領となり,幕末にいたる。甲斐の金山は武田信玄の時代から採掘され,慶長年間(1596~1615),家康は大久保長安に支配させた。甲金とも甲州金ともいった特別の金貨があり,これは甲斐一国にかぎって通用するものであった。明治の廃藩置県に際しては,明治1(1868)年9月に府中県,市川県,石和県に分かれ,10月には甲斐府として合併,同 2年には甲府県となり,さらに同 4年に山梨県となる。

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デジタル大辞泉の解説

かい‐の‐くに〔かひ‐〕【甲斐国】

甲斐

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百科事典マイペディアの解説

甲斐国【かいのくに】

旧国名。甲州とも。東海道の一国。現在の山梨県。国名は峡(かい)の意という通説があるが,現在は否定的見解が強い。《延喜式》に上国,4郡。中世,源氏の一族武田氏が守護。
→関連項目市河荘郡内騒動甲府[市]中部地方南部郷山梨[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

かいのくに【甲斐国】

現在の山梨県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府笛吹市御坂(みさか)町、国分寺は同市一宮(いちのみや)町におかれていた。平安時代は御牧(みまき)(朝廷の直轄牧場)、荘園(しょうえん)が多く、源頼信(みなもとのよりのぶ)の子孫が土着して甲斐源氏(げんじ)が勃興(ぼっこう)した。その流れをくむ武田(たけだ)氏が中世を通じて守護として勢力を伸ばし、戦国時代武田信玄(しんげん)のときに全盛を迎えた。関ヶ原の戦い後は徳川氏の領有となり、1724年(享保(きょうほう)9)以降は幕府直轄領となって幕末に至った。1868年(明治1)に府中(ふちゅう)県、市川(いちかわ)県、石和(いさわ)県に分かれたが、のち合併して甲斐府となった。1869年(明治2)に甲府(こうふ)県、1871年(明治4)に山梨県と改称。◇甲州(こうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

かいのくに【甲斐国】

旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
 古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲斐国
かいのくに

山梨県の旧国名。甲州(こうしゅう)。東海道の一国。国名は、周囲を山に囲まれたいわゆる山峡(やまかい)の峡の意に由来するという。成立年代は不明であるが、古くは山梨、八代(やつしろ)、巨麻(巨摩)(こま)、都留(つる)の4郡が設置された。官道として甲斐路は東海道本路の駿河(するが)国(静岡県)横走(よこばしり)駅から分岐して、国境の篭坂(かごさか)峠から御坂(みさか)峠を越えて八代郡にあった国府に達した。名馬の産地で聞こえた甲斐には平安時代、柏前(かしわさき)、真衣野(まきの)、穂坂(ほさか)の三つの御牧(みまき)が置かれて馬を貢上した。荘園(しょうえん)は969年(安和2)の市河荘が初見で、その後各地に展開した荘園を地盤に甲斐源氏が勃興(ぼっこう)する。1029年(長元2)に源頼信(よりのぶ)、ついでその孫新羅(しんら)三郎義光(よしみつ)が甲斐守(かみ)に任ぜられて甲斐源氏の基を開いたといわれるが、甲斐源氏の直接の祖となったのはその子義清で、後を継いだ清光は多くの男子を国内の要地に配した。鎌倉幕府創業期に甲斐源氏の果たした役割は大きく、信義を祖とする武田氏が以後甲斐の守護を世襲する。この間1274年(文永11)日蓮(にちれん)が身延(みのぶ)に入山し久遠寺(くおんじ)をおこした。戦国期、甲斐の領国統一に力を注いだ武田信虎は、1519年(永正16)居館を石和(いさわ)から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移し甲府を開府した。信玄(しんげん)は9か国に及ぶ版図を領して武田氏の全盛時代を現出したが、子勝頼(かつより)の代に1582年(天正10)織田信長に滅ぼされた。徳川家康の領有から一時豊臣(とよとみ)氏の勢力下で羽柴(はしば)秀勝、加藤光泰(みつやす)、浅野長政(ながまさ)・幸長(よしなが)父子が封ぜられたが、関ヶ原の戦い後、再度徳川氏の領するところとなり、江戸時代には国中(くになか)地方は徳川義直(よしなお)や忠長(ただなが)ら家門が受封、あるいは幕府領として推移し、ついで徳川綱重(つなしげ)・綱豊(つなとよ)父子、柳沢吉保(よしやす)・吉里(よしさと)父子が領した。都留郡(郡内領)には鳥居成次(とりいなりつぐ)、秋元泰朝(やすとも)から3代にわたる譜代(ふだい)小藩が設置された。都留郡は1704年(宝永1)から、1724年(享保9)には甲斐一円が幕府直轄領となり、甲府勤番支配と代官支配との下に置かれ、またその後三卿(さんきょう)領も設けられて明治維新に及んだ。特産物として著名なものに郡内織と甲州ブドウがあり、京都への「登せ糸(のぼせいと)」生産やタバコ栽培も盛んであった。交通運輸の要路としては甲州街道と富士川水運があった。江戸後期には甲府に官学として徽典館(きてんかん)が設立され、また幕府の内命に基づいて『甲斐国志』が編纂(へんさん)された。1868~70年(明治1~3)に甲府、市川、石和の3県から甲斐府、甲府県を経て、71年山梨県となった。[飯田文弥]
『磯貝正義・飯田文弥著『山梨県の歴史』(1973・山川出版社)』

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世界大百科事典内の甲斐国の言及

【筋】より

…このように小倉藩では郡と筋がいっしょのものとされるが,筋の呼称は藩主小笠原氏の信州統治時代に由来するといわれる。甲斐国では一国を万力(まんりき)・栗原・大石和(おおいさわ)・小石和・中郡・北山・逸見(へみ)・武川(むかわ)・西郡の9筋と,郡内領・河内(かわうち)領の2領に分けていた。筋という単位は戦国時代に見られ,2領が国人領であったことに由来するので,甲斐の筋は武田氏統治時代から行政単位とされたようである。…

※「甲斐国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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