日本歴史地名大系 「市ノ坪村」の解説 市ノ坪村いちのつぼむら 埼玉県:大里郡妻沼町市ノ坪村[現在地名]妻沼町市ノ坪市野坪・市之坪などとも記す。利根川右岸の氾濫原に位置し、東は飯塚(いいづか)村、南は丈方(じようほう)川(福川)を境に下増田(しもますだ)村(現熊谷市)、西は堀米(ほりごめ)村(現深谷市)、北は太田(おおた)村。村名は古代条里制に由来し、一の坪が市ノ坪に転じたもので、当村から南方の西別府(にしべつぷ)村・東別府村(現熊谷市)を中心とした水田地帯に施行されたと想定される幡羅(はら)郡条里の坪付の名称が地名となったと考えられる。田園簿によれば田方九石余・畑方一〇八石余、幕府領と旗本江原領の相給。 市ノ坪村いちのつぼむら 和歌山県:海草郡下津町市ノ坪村[現在地名]下津町市坪(いちつぼ)有田郡との境をなす長峰(ながみね)山脈の北斜面に位置し、加茂(かも)川支流市坪川の谷を伝う熊野街道に沿って集落がある。街道は北は橘本(たちばなもと)村へ、南西は沓掛(くつかけ)村へ続く。建仁元年(一二〇一)の「後鳥羽院熊野御幸記」に「一壺(いちのつぼ)王子」がみえる。村名は条里制の坪付によるものと思われる。慶長検地高目録によると村高四〇八石余、小物成一石六斗六升九合。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によれば当村は藩の蔵入地で、本田畑高四〇六・八六四石、新田畑高四・九七一石、開起田畑〇・五〇六石、戸数一一二、人数四九九とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by