日本歴史地名大系 「常村」の解説 常村つねむら 広島県:芦品郡新市町常村[現在地名]新市町常金丸(かねまる)村の南に位置し、神谷(かや)川の中流域を占める。「備後郡村誌」に「山七合田畑三合村ニ御座候、但弐歩水損所、八歩旱損所」とある。芦田(あしだ)郡に属した。古代の都祢(つね)郷(「和名抄」東急本)の地とされる。また村域の東部に芦浦(あすら)の地名があるが、同じく古代の葦浦(あすら)郷の遺称地とされる。「備陽六郡志」は「あすらと云小名有、吉備津彦の命初て此所にきたり給て、御足をいたみ、あしすりをしたまひし所なるゆへに足蹉(あしすり)と書て、あすらとよめり、又芦浦トモ書也」と地名説話を記し、「芦品郡志」は「昔誉津別皇子出雲参詣の時、御舟此地に着くと伝ふ、蓋当時穴海は水湛へて此地までの水運開けたりしものか」と記す。文明三年(一四七一)六月一六日付西国寺不断経修行勧進并上銭帳(西国寺文書)に「常衆」分として「壱貫文 惣中 五百文 宿院範怡」とあり、この宿院は当地の常陸山宿(しゆく)院(現高野山真言宗宿王院)をさす。 常村つねむら 京都府:舞鶴市池之内地区常村[現在地名]舞鶴市字常・常新町(つねしんまち)・京月(きようげつ)町・京月東(ひがし)町・亀岩(かめいわ)町木之下(きのした)村の西に隣接、与保呂(よほろ)川の左岸にあって南の山を背にして山麓に開ける。江戸時代の初めには慶長検地郷村帳にみえる高一〇三五・二四石「与保呂村」に含まれており、享保三年(一七一八)の領中郷村高付では与保呂下村(木之下村)の枝村で、高三〇九・四〇三四石「枝郷常村」とある。土目録によれば「与保呂下村之内 常村」とあって高も変化せず、内訳は田方二七四石余、畑方三五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by