日本大百科全書(ニッポニカ) 「平山行蔵」の意味・わかりやすい解説
平山行蔵
ひらやまぎょうぞう
(1759―1828)
江戸後期の兵学者、武術家。名は潜(せん)、字(あざな)は子龍(しりょう)。兵原(へいげん)、兵僊(へいせん)、運籌真人(うんちゅうしんじん)、練武堂(れんぶどう)などと号した。江戸四谷(よつや)の伊賀組同心の家に生まれ、少年時代より文武両道に励み、武芸十八般に通じていたが、とくに兵学(長沼(ながぬま)流)と剣術(心貫(しんかん)流)を得意とした。1793年(寛政5)35歳のとき、昌平坂(しょうへいざか)学問所に入り、聖堂出役(せいどうしゅつやく)・同御普請役見習に任用されたが、これに飽き足らず致仕し、以後自宅に設けた文武道場「兵原草廬(そうろ)」で剣術(忠孝真貫(ちゅうこうしんかん)流、のち講武実用(こうぶじつよう)流と改称)、兵学、儒学を講じた。常在戦場を実践して玄米を常食とし、実戦実用の武術を鼓吹した。1807年(文化4)北辺にロシア人が出没すると、海防に強い関心を示し、幕府に上書して、自ら蝦夷(えぞ)地に渡航し、その南下を防止することを願い出ている。
健筆家で、著書には『剣説(けんせつ)』『剣徴(けんちょう)』『孫子衍義(そんしえんぎ)』『海防問答』など500巻を数える。門下には下斗米秀之進(しもどまいひでのしん)(相馬大作)、妻木弁之進(つまきべんのしん)、勝小吉(かつこきち)(海舟の父)らがいる。
[渡邉一郎]