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相馬大作 そうまだいさく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

相馬大作
そうまだいさく

[生]寛政10(1798).盛岡
[没]文政5(1822).8.29. 江戸,小塚原
江戸時代末期,文政4 (1821) 年に起った南部騒動 (檜山騒動 ) の首謀者。南部 (盛岡) 藩士下斗米 (しもどまい) 総兵衛の子。通称秀之進。相馬大作はその変名。もと南部家の家臣だった津軽家が小田原征伐のとき主家を欺いて独立し,江戸時代になると南部家以上の権勢をふるった。

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デジタル大辞泉の解説

そうま‐だいさく〔サウま‐〕【相馬大作】

[1789~1822]江戸後期の南部藩士。本名、下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)。もと南部家に臣従していた津軽家が、主家以上の権勢を得たことに義憤を感じて津軽侯殺害を計画したが発覚。江戸で捕らえられて刑死。

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百科事典マイペディアの解説

相馬大作【そうまだいさく】

江戸後期の陸奥(むつ)盛岡藩の地方給人。本名は下斗米(しもとまい)秀之進,下斗米家は紙,蝋,油,漆などを扱う商人でもあった。江戸に出て兵法武術を学んだ秀之進は帰国後郷里福岡(のち金田一に移転,いずれも現在の岩手県二戸市)に私塾兵聖(へいせい)閣を開き,門弟の指導にあたっていたが,もと盛岡藩南部家に臣従していた弘前藩津軽家が江戸時代に南部家をしのぐ勢いとなったのを不満とし,1821年門人の関良助らとはかり,帰国途中の弘前藩主津軽寧親(やすちか)を襲撃しようとして発覚(檜山(ひやま)騒動),相馬大作と名を変えて江戸に逃れたが捕らえられ,獄門に処された。
→関連項目二戸[市]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

相馬大作 そうま-だいさく

1789-1822 江戸時代後期の武士。
寛政元年生まれ。陸奥(むつ)盛岡藩の浪人。藩主南部家の家臣筋にあたる津軽家(弘前(ひろさき)藩主)の官位昇進などにいかり,文政4年津軽寧親(やすちか)の参勤交代の帰途を襲撃しようとしたが発覚(南部騒動),江戸で捕らえられ文政5年8月29日処刑された。34歳。本名は下斗米将真(しもとまい-まさざね)。通称は秀之進。
【格言など】ふかばふけ倒さば倒せ秋嵐こころの山をいかでうごかん(辞世)

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世界大百科事典 第2版の解説

そうまだいさく【相馬大作】

1788‐1822(天明8‐文政5)
江戸後期,盛岡藩の地方給人。本名は下斗米(しもどまい)秀之進。盛岡藩領福岡の下斗米惣兵衛の子。家は代々平野屋の屋号を持つ商人でもあり,紙・蠟・油・漆などの販売を行っていた。1802年(享和2)江戸に出て,幕臣夏目長右衛門および紀州藩士平山行蔵に兵法武術を学んだ。15年(文化12)郷里福岡に帰り,講武場を設け,子弟の教育にあたった。師である平山の影響をうけ北方警備に関心を持ち,18年(文政1)松前に渡り地理風俗を視察した。

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大辞林 第三版の解説

そうまだいさく【相馬大作】

1789~1822) 江戸後期の南部藩士。本名、下斗米しもどまい秀之進。もと南部家の被官であった津軽家が主家をしのぐ権勢をふるい出したことを憤って脱藩し、変名して1821年津軽藩主を襲撃、失敗して斬首された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

相馬大作
そうまだいさく
(1789―1822)

南部(盛岡)藩の浪人。檜山(ひやま)騒動(南部騒動)の首謀者。本名は下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)。父は南部藩士。1803年(享和3)15歳で江戸に出、平山行蔵(ひらやまぎょうぞう)(子龍(しりょう))の門に入り修業。帰郷して福岡(岩手県二戸(にのへ)市)に道場兵聖閣(へいせいかく)を開き、兵法と砲術を指南する。津軽(弘前(ひろさき))・南部両藩の対立は立藩以来のものだが、江戸中期には家格競争となって表れた。08年(文化5)津軽藩は10万石に高直りし、20年(文政3)藩主津軽寧親(やすちか)はついに侍従に昇進した。これを不正によるものと憤激した大作は、関良助らと謀り21年4月4日、白沢村(秋田県大館(おおだて)市)岩抜山(いわぬきやま)(一説に矢立(やたて)峠とも)で寧親襲撃を企てたが、事が露見し暗殺計画は失敗した(檜山騒動)。江戸へ逃れ相馬大作と変名し道場を開いたが、翌年正月捕らえられ、8月小塚原(こづかっぱら)で獄門に処せられた。大作は北方警備にも強い関心を抱いていた人物という。[工藤睦男]

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世界大百科事典内の相馬大作の言及

【矢立峠】より

…峠は羽州街道の難所で,吉田松陰はそのようすを《東北遊日記》に記している。1821年(文政4)南部藩士相馬大作らが参勤の津軽藩主を襲おうとした事件の舞台ともなった。現在は峠の西を奥羽本線矢立トンネルが通る。…

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