平田靱負(読み)ひらたゆきえ

改訂新版 世界大百科事典 「平田靱負」の意味・わかりやすい解説

平田靱負 (ひらたゆきえ)
生没年:1704-55(宝永1-宝暦5)

江戸中期の薩摩藩家老。名は宗武,のち正輔。通称平蔵,兵十郎,掃部,のち靱負。1735年(享保20)父正房の隠居により家を継ぎ,長く勝手方家老を務め,藩政に重きをなした。53年(宝暦3)藩主島津重年が幕府より木曾三川治水の御手伝普請を命ぜられた際,惣奉行に任命され,資金借入れに奔走するなど多大な労苦の末に竣工させた。任果ててのち責任を負って自刃した。
宝暦治水事件
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平田靱負」の解説

平田靱負 ひらた-ゆきえ

1704-1755 江戸時代中期の武士
宝永元年8月12日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩家老。宝暦3年藩主島津重年(しげとし)が幕府から木曾川治水工事を命じられると,総奉行となる。苦難の末に工事を完成させたが,40万両にものぼる莫大な出費多数犠牲者をだした責任をとって,宝暦5年5月25日自刃(じじん)した。52歳。名は宗武,正輔。
格言など】住み馴れし里もいまさら名残りにて立ちぞわづらふ美濃の大牧(おほまき)(遺詠)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の平田靱負の言及

【宝暦治水事件】より

…江戸中期,宝暦年間(1751‐64)に薩摩藩が幕府の命で木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)治水工事を行った際,引責自刃など多数の犠牲者を出した事件。1753年藩主島津重年は御手伝普請を命ぜられるや家老平田靱負(ゆきえ)を惣奉行に任命し,上下1000人近い役人を現地に派遣して工事に当たらせた。幕府からは目付,普請役,勘定方,美濃郡代が派遣され,交代寄合美濃衆で水行奉行の高木三家も立会いを命ぜられ,ともに工事を厳しく監督した。…

※「平田靱負」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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