改訂新版 世界大百科事典 「宝暦治水事件」の意味・わかりやすい解説
宝暦治水事件 (ほうれきちすいじけん)
江戸中期,宝暦年間(1751-64)に薩摩藩が幕府の命で木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)治水工事を行った際,引責自刃など多数の犠牲者を出した事件。1753年藩主島津重年は御手伝普請を命ぜられるや家老平田靱負(ゆきえ)を惣奉行に任命し,上下1000人近い役人を現地に派遣して工事に当たらせた。幕府からは目付,普請役,勘定方,美濃郡代が派遣され,交代寄合美濃衆で水行奉行の高木三家も立会いを命ぜられ,ともに工事を厳しく監督した。工事の主要な目的は網目状につながった三川を分流して水難を防ぐことであり,最大の難工事は油島新田の地先を締め切り,木曾川を分離するものであった。普請中の増水,資材調達の難航等種々の困難を克服し,55年に竣工した。この間,藩側では33名の病死と平田ら54名の自刃により87名の犠牲者を出し,藩の2年分の収入に相当する40万両にのぼる出費を強いられた。薩摩藩による宝暦治水は329ヵ村に恩恵を与え,その功績は現代まで語りつがれている。
執筆者:西田 真樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報