大学事典 「平賀粛清」の解説
平賀粛清
ひらがしゅくせい
1939年(昭和14)東京帝国大学総長の平賀譲が教授会および評議会の議決を経ずに,総長の判断・責任によって経済学部教授の河合栄治郎と土方成美の休職処分を決定した事件。それ以前から同学部では派閥対立が顕著になり,採用・昇進人事を中心として教授会が機能不全に陥っていた中で,1938年に河合の著作4冊が赤化容共的な内容をもつとして発禁処分になるという河合事件が起こった。それに対する裁定として,平賀粛清は次の点で学問の自由の先例を無視した処断になった。①沢柳事件を契機に1914年(大正3)以来確認されていた,教授の任免は教授会の議を経ることという教授会自治の慣行が覆された。②河合の処分に対しては,教授の不適格要件が思想そのものではなく表現方法にまで拡張された。③河合のみならず土方も処分を受けた理由は,自由主義派および国家主義的「革新派」の派閥の中心人物であった両者に対して,学部内紛の責任という異例の教授不適格要件が適用されたことであった。
著者: 岩田弘三
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報