平野藤次郎(読み)ひらの・とうじろう

朝日日本歴史人物事典 「平野藤次郎」の解説

平野藤次郎

没年:寛永15.6.10(1638.7.21)
生年:生年不詳
近世初頭の銀座(銀貨鋳造所)頭役,朱印船貿易家。父の末吉次郎兵衛(長成)は末吉藤左衛門(増久)の3男家で,のち平野改称伯父末吉勘兵衛(利方)。藤次郎は次男で,名を正次,正貞。代々の平野藤次郎を継承した。慶長6(1601)年,末吉利方による伏見の銀座差配の折,10人の銀座頭役が任命されるが,その中で3人が末吉一族となる。西末吉家利方を継承した孫左衛門(吉安),平野家の藤次郎の兄九郎右衛門,そして藤次郎。藤次郎は銀座頭役として経営の中枢に立ち,京都に居住した。同17年,大坂の南堀川(道頓堀)の開発に関し,大坂の豪家安井九兵衛,平野(大阪市)の坂上七名家の安井道頓らと共同で当たり,元和1(1615)年に完成させた。ところが,大坂の陣(1614~15)で,平野郷町(大阪市東区)が重要な戦場となり,藤次郎は末吉孫左衛門と協力,徳川方に参加して大きな功績をあげ,戦後,2人は共に代官職に任命されたので,藤次郎の道頓堀の諸特権は弟の平野次郎兵衛(長次)に与えられ,安井九兵衛と道頓堀八丁取立の責任者として特権を行使した。なお功労者の安井道頓は豊臣方について大坂城落城の日に戦死していた。さらに寛永3(1626)年より,藤次郎は朱印船貿易に従事,台湾に渡航したが長崎の末次平蔵船と共にオランダとのトラブルを起こし,いわゆる「台湾事件」に関係した。次いで寛永年間(1624~44)安南国東京・交趾(インドシナ半島)などに朱印船を出していたが,寛永鎖国で禁止された。その後,有力な朱印船主と貿易復活運動を展開したが果たされなかった。<参考文献>『安井家文書』(大阪市立博物館蔵),岩生成一『朱印船貿易史の研究』,中田易直『近世対外関係史の研究』,同「末吉孫左衛門と末吉平野一統」(『日本歴史』501号)

(中田易直)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「平野藤次郎」の意味・わかりやすい解説

平野藤次郎 (ひらのとうじろう)
生没年:?-1638(寛永15)

大坂平野郷の豪家末吉の一統で,朱印船貿易家,銀座頭役,それに摂津国平野の代官職を務めた。父は末吉藤右衛門の三男次郎兵衛(長成)といい,その次男が藤次郎(正貞)で姓を平野と改めた。伯父の次男末吉勘兵衛(道勘,利方)家と同様に,徳川家康の信頼を得て活躍した。大坂の陣の功績によって1615年(元和1)大坂堀川一帯の支配を特許されており,さらに翌16年には摂津平野の代官職に任ぜられ,代々世襲した。藤次郎は1601年(慶長6)10人の銀座頭役の一人として銀座経営に当たり,これも世襲され,銀貨幣鋳造の責任者であった。また26年(寛永3)より35年の寛永鎖国に至るまで朱印船貿易を毎年のように行い,その主流をなす貿易家で,京都の角倉,茶屋と並ぶ近世初頭の豪家であった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平野藤次郎」の解説

平野藤次郎 ひらの-とうじろう

?-1638 江戸時代前期の貿易商。
末吉利方の甥(おい)。代々平野藤次郎を称した。父の死後,銀座(銀貨鋳造所)頭役,摂津平野(大阪府)の代官をつぐ。寛永3年から12年の鎖国直前まで台湾・交趾(コーチ)(現ベトナム)との朱印船貿易をおこなった。寛永15年6月10日死去。名は正貞。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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