[ 二 ][ 一 ]にあやかり、全国に銀座の名の付く繁華街・商店街がある。「砂町銀座」「戸越銀座」のように地名を冠した「…銀座」も多い。
中央区南西の一画。江戸時代には京橋川に架かる京橋の南、現銀座一―四丁目の表通りに面した一部は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都中央区南西部にある繁華街。東京あるいは日本を代表する高級商店街として世界的に知られる。行政地名としての銀座は中央通り(かつての銀座八丁で,銀座通りともいう)をはさむ広い範囲に及んでいる。交通の便がよく,近くにホテルや劇場,映画館も多い。銀座の名の起りは,1612年(慶長17)幕府の銀貨鋳造所,すなわち銀座を駿府からこの地(現在の銀座2丁目)へ移したことに始まる。町屋の発達につれて,この一画が銀座町と呼ばれるようになった。当時の流通経済の中心は金座のあった日本橋かいわいであったので,両替町とも呼ばれた日本橋に対して,銀座町かいわいは新両替町とも呼ばれた。銀の買入れや銀の保管に当たっていた銀座役所は,1800年(寛政12)日本橋蠣殻(かきがら)町(現在の人形町の一部)へ移転したが,町名としての銀座は残った。
明治維新後の1869年(明治2)銀座は正式の町名となった。72年に東京の中心駅としての新橋駅(のちの汐留貨物駅)が開設され,新橋から銀座を通って京橋へのびる東海道筋は将来の発展を約束された。同年この地一帯に大火があり,その復興事業としてイギリス人技師ウォートルスの指導によって,文明開化のシンボルともなった煉瓦街が生まれ,東海道筋は銀座通りと呼ばれるようになった。狭い範囲の地名であった銀座は,新橋から京橋へ至る,いわゆる銀座八丁の大通りにまで広がり,さらにその周囲をも含むようになった。銀座通りには,74年ガス灯がともり,80年ころから柳が植えられ,82年にはアーク灯が設置された。また82年に大通りを馬車鉄道が走り,1903年には路面電車が開通した。14年丸の内に東京駅が開業しても,銀座の中心商店街としての地位には変りがなく,関東大震災後の復興も早かった。大正から昭和にかけて,全国各地の商店街に銀座の名がつけられたり,“銀ぶら”という言葉が生まれたりした。高級専門店,デパート,喫茶店(カフェ),レストラン,バー,クラブなどが集中し,近くの丸の内のオフィス街や霞ヶ関の中央官庁街とともに,名実ともに東京の都心を構成した。
第2次大戦で町並みはほぼ完全に焼失したが,復興は急速で,やがて再び中心商店街としての地位をとり戻した。1960年代ころより始まった高度経済成長により,銀座の高級化はさらに進んだ。しかし同時に東京の人口中心が西へ移動し,新宿副都心計画が軌道に乗るにつれて,銀座の中心商店街としての地位は少しずつおびやかされるようになった。渋谷,池袋副都心の興隆やファッション中心の原宿や青山の出現も,銀座の地位を低下させた。人の流れの中心も銀座通りから晴海通りへと,すなわち銀座尾張町(4丁目)交差点から数寄屋橋,有楽町駅方面へと移動したが,銀座は古くからの知名度を生かして,より近代的な商店街づくりを進めている。
執筆者:正井 泰夫
銀座の今日の繁栄の基礎は現在の6丁目以北を焼失した1872年2月26日の丸の内大火後の復興計画,銀座煉瓦街の実現によっている。政府は大火を契機に煉瓦造建築で町並みを建設する計画を企てたが,その理由は銀座が外国人交通の要所となることを見越し,条約改正を有利に進めるための都市美装であった。計画を主導したのは大蔵大輔井上馨,東京府知事由利公正である。大火直後より,お雇い外国人ウォートルス原案になる煉瓦造家屋の仕様,土地買上げの布告などが次々に出され,72年3月末には東海道を15間に拡張する杭打ちを完了した。しかし,さらに土地収用立退きなどが強制されると住民の拒否抵抗を呼び,煉瓦建築を忌避するさまざまな流言や自殺者も生じた。煉瓦家屋は73年中に15間道路に面した216戸が完成するが半数以上に空家を生じ,対策に苦慮した政府は築地一帯の計画を中止し,土蔵,塗家の一部許可,入居条件の緩和などを行ったが,煉瓦街が一応完成した77年にも総戸数1400余の中で360戸は空家であった。街区は1階に円柱の立ち並んだ二階建ての統一ある町並みで,煉瓦敷の歩道には街路樹とガス灯が設置された。しかし,〈市街は寂寞として路上自から不潔を生〉ずるありさまで,80年ころまで場末は見世物に貸し出されて興行地のようであったという。78年民間への払下げが決定され,87年ころには空家も消滅したが,住居の洋風化に慣れない住民の増築改造により和洋折衷の新たな町並みに造り替えられた。明治中期から大正にかけて主要新聞社が集中するなどしだいに活況を呈し,ガス灯やアーク灯,勧工場など新奇な風俗を求める人々でにぎわった。
執筆者:丸山 茂
江戸幕府の銀貨鋳造所をいう。金座が本来は小判,一分金の鋳造所であったのと同様に,銀座も本来は秤量貨幣としての丁銀(ちようぎん),豆板銀の鋳造所であった。はじめは幕府の留守居年寄に,1689年(元禄2)からは勘定奉行に属した。銀座が徳川氏によって山城の伏見にはじめて設立されたのは1601年(慶長6)であった。関西では室町時代末期から各地の港町や諸都市で極印灰吹(ごくいんはいふき)銀が流通していたが,これは,銀産地のいかんによって,また同じ銀産地のものでも,極印のいかんによって品位が異なっていたから,諸国商人の間での取引の不自由や争論を免れることができなかった。そこで不自由な灰吹銀遣いを,品位の一定した〈天下一統の丁銀遣い〉にするために銀座が設けられたものである。最初に徳川家康から銀座取立ての命をうけたのは,摂州平野の豪商末吉勘兵衛と金座の後藤庄三郎の両人であったが,それとともに堺の銀商大黒常是(じようぜ)が,銀貨の鋳造,極印,包封を担当する銀吹手に決まり,さらに淀屋次郎左衛門ら10人が頭役(後の銀座年寄)となり,また多数の座人や銀見役を抱えるとともに伏見に町屋敷4町を拝領して,銀会所・座人家宅・常是吹所などを建てた。ついで1606年には駿府にも銀座が設けられた。銀吹所は,大黒の次男で,2代目作左衛門の弟にあたる長左衛門であり,座人たちは伏見から勤番交代した。つまり伏見(後に京都)が本座であった。08年伏見の銀座を京都に移し,室町と烏丸の間,二条から三条までの間4町の地に移した。また12年駿府の銀座を江戸に移し,通町京橋より南へ4町の地に町屋敷を与えた。これが江戸の銀座であるが,吹所は駿府以来の大黒長左衛門であった。そのころ,大坂の高麗橋(こうらいばし)一丁目にも銀座を置いているが,ここでは銀貨を鋳造せず,京都の〈銀座出見世〉であった。また長崎にも銀座を置いているが,これは鋳貨材料の灰吹銀を異国人が持ち帰るのを監視するためのものであった。
銀座の事業は,(1)世上に流通していた極印灰吹銀ならびに私領の銀山産出灰吹銀を買い上げ,これに銅を加えて吹きたてた丁銀,豆板銀から,銀座雑用(買灰吹代と吹方入用の二つ)を差し引き,その残余を銀座の利潤とするが,この利潤から銀座運上を上納する自家営業方式,(2)佐渡・石見・生野など公領の銀山上納灰吹銀,すなわち公儀灰吹銀を幕府から預かって吹き立てた丁銀,豆板銀から,吹方入用の分一(ぶいち)銀(吹高の3%)を差し引き,残余を幕府に納める御用達方式,の二つから成っていた。初期銀座の利潤は(1)を自家営業方式から得られたもので,これを座分(ざぶ)配当と称する銀座古来の利益配分方式により各座人に配当された。しかし,17世紀後半になると,世上の極印灰吹銀の減少と銀山の産出減退に伴って,銀座は自家営業の利潤を失っていった。そして元禄の改鋳(1695)以後になると,銀座ははじめ吹高の3%であった分一銀率の引上げ運動の成功によってのみ生きる御用達町人と化した。《京都御役所向大概覚書》による享保初年ころの銀座人は年寄5人,大勘定役6人,戸棚勘定役6人,戸棚役3人,平役25人,銀見役18人,計63人という多数である。このほかに,江戸に住居を構えるにいたった江戸住衆があり,京・江戸両地の銀吹所大黒常是とその手代たちも存在した。かくて元文の改鋳(1736)後,銀座の経営は悪化して,1766年(明和3)の幕府に対する銀座上納滞銀はじつに8396貫目,金に換算して13万9930両余に達した。
1800年(寛政12),寛政改革の一環として強行された銀座改正で,正規の座人は15人に減ぜられ,座人たちは以後利潤分配としての座分配当を失い,〈公儀の銀座役所〉から役料・手当をうける身分となった。またこの改正で江戸の銀座役所は新両替町から蠣殻(かきがら)町に移されたが,京都銀座では以後銀貨の鋳造は行われず,長崎の銀座も廃止となった。1772年(明和9)から始まった南鐐二朱銀の鋳造以後,銀座は文政二朱銀,文政一朱銀,天保一分銀,嘉永一朱銀,安政二朱銀など,主として上銀貨幣の鋳造にあたったが,真鍮四文銭や精鉄四文銭も鋳造した。1869年(明治2)廃止された。
執筆者:田谷 博吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京都中央区西部にある日本有数の商店街、歓楽街。日本橋・京橋の中心商店街、丸の内・大手町の業務地区、有楽町(ゆうらくちょう)の歓楽街、霞が関(かすみがせき)・永田町の官庁街、および日比谷(ひびや)公園・皇居外苑の公園緑地とともに東京の都心地区を形成する。1612年(慶長17)江戸幕府の銀座(銀貨鋳造所)を駿府(すんぷ)(静岡市)からいまの銀座2丁目に移したため、新両替(しんりょうがえ)町または銀座町とよばれた。その後、1800年(寛政12)日本橋蠣殻(かきがら)町に移された。現在2丁目中央通りに「銀座発祥の地」の碑が立てられている。なお、銀座に対する金座は、現在日本銀行本店のある地(日本橋本石(ほんごく)町)に設けられた。
[沢田 清]
銀座はかつて外堀、京橋川などの水路で囲まれていたが、それらは現在すべて埋め立てられ、首都高速道路となっている。東京地下鉄の銀座線・丸ノ内線・日比谷線・有楽町線、都営地下鉄浅草線が集中し、交通の中心である。
[沢田 清]
徳川家康が江戸城に入城した1590年(天正18)ごろは、日本橋、京橋、銀座および大手町、丸の内一帯は日比谷入り江とよばれる浅い海であった。家康は大手町、丸の内地区を1592年(文禄1)から埋め立て始め、ついで町人の地として日本橋、銀座一帯を1600年から埋め立てたという。銀座の埋立ては1603年で神田山(駿河台(するがだい))の土を運んできた。
江戸時代、町屋として旧東海道筋に商店が軒を連ねたが、経済の中心は日本橋地区にあり、銀座の発展は明治以後である。1872年(明治5)の大火後の再開発にあたり、当時の東京府知事由利公正(ゆりきみまさ)は銀座を西洋風建築のモデル地区に計画した。幅員26メートルの道路には、歩道が設けられ、サクラ、マツ、カエデなどの街路樹が植えられた。「銀座の柳」といわれるヤナギは1880年ごろで、赤れんがの2階建て建築とよく調和した。アーク灯、ガス灯、鉄道馬車、市電など新しいものが導入され、やがて銀座の名が全国に知れ渡るようになった。
明治初期の銀座はいまの中央通り東側の1~4丁目にすぎなかったが、関東大震災後8丁目まで延長、西側は銀座西(江戸時代は紺屋(こんや)町、弓町など)と1930年(昭和5)命名された。昭和通り以東はもと木挽町(こびきちょう)とよばれていた所で、1951年(昭和26)銀座東と改称された。さらに1968~1969年銀座、銀座西、銀座東が統合されて、現在の銀座となった。
[沢田 清]
銀座は日本最高の中心商店街として発展しているが、そのなかでも4~8丁目の中央通りが中心である。尾張町(おわりちょう)とよばれる4丁目交差点には古風な時計塔のある和光(わこう)、三越デパート、円筒形の三愛ドリームセンター、伝統工芸の透彫りをモチーフとした外観の銀座プレイスで囲まれ、ここから8丁目まで高級専門店が並ぶ。この通りを「横の銀座」とよぶのに対し、晴海(はるみ)通りは「縦の銀座」と称し、日比谷から続く商店街、歓楽街として新しく発展した。有楽町駅東側の旧朝日新聞東京本社跡(1980年築地(つきじ)へ移転)と旧日本劇場跡には、有楽町西武、有楽町阪急のデパートが進出し(現在はルミネ有楽町、阪急メンズ東京)、面目を一新させている。また、歌舞伎座(かぶきざ)(1951年再建、2013年第5期歌舞伎座竣工)、新橋演舞場(1982年改築)、松屋、マロニエゲート銀座など多くのデパート、『君の名は』で知られる数寄屋橋(すきやばし)跡、画廊など、夜のネオンの美しさと相まって全国各地からの人の訪れでにぎわう。銀座の歩行者天国は1970年に東京で最初に指定されたもの。
[沢田 清]
『田村栄太郎著『銀座、京橋、日本橋』(1965・雄山閣出版)』▽『安藤更生著『銀座細見』(中公文庫)』
江戸幕府の銀貨鋳造所。徳川家康は1598年(慶長3)伏見(ふしみ)に銀貨鋳造所を設け、堺(さかい)の南鐐座(なんりょうざ)の銀吹人湯浅作兵衛常是(ゆあささくべえじょうぜ)(のちに大黒(だいこく)と改姓)を招いて銀貨を鋳造させた。ついで幕府は、1601年大津の代官末吉勘兵衛利方(すえよしかんべえとしかた)を登用して銀座の長官となし、銀貨の品位を改定して丁銀(ちょうぎん)、小玉銀(こだまぎん)(小粒銀、豆板銀)をつくらせた。その後、駿府(すんぷ)、京都(伏見より移転)、大坂、江戸(駿府より移転)、長崎などに設けられたが、1800年(寛政12)に銀座座人の不正事件が起こり、銀座は蠣殻(かきがら)町(東京都中央区日本橋人形町2丁目)に移転し、江戸1か所に統合された。現在、中央区銀座2丁目に「銀座発祥の地」という記念碑が立てられているが、これは、駿府の銀座が江戸に移された1612年(慶長17)に開設された江戸銀座の所在地に近い所にある。
銀座は金座とは違って、幕府直轄の貨幣鋳造所ではなく、幕府から銀貨の鋳造を許可された御用達(ごようたし)商人による請負事業的な性格をもっていた。銀座の組織は座人十数名からなり、そのなかから1~2名の年寄が選任され、鋳造業務を統轄した。銀座では諸国灰吹銀(はいふきぎん)を買い入れて丁銀・小玉銀をつくる自営業方式と、幕府から預った灰吹銀で銀貨をつくる御用達方式との二つの経営方法があった。1869年(明治2)造幣局の設置により廃止となった。
[作道洋太郎]
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江戸時代の銀貨鋳造機関。1601年(慶長6)伏見に開設され,大黒常是(じょうぜ)の極印銀を鋳造したが,08年京都へ移転。これと前後して駿府・大坂・長崎にも開設された。駿府の銀座はまもなく江戸に移転,大坂は灰吹銀買集めのための京都銀座の出張所で,長崎銀座は貿易銀の取締りを担った。銀座の組織は,銀貨鋳造・極印打ちと上納銀包立てを家職とした大黒常是の役所と,鋳造事業の運営にあたった狭義の銀座から構成された。はじめ独自に灰吹銀を買い求める自家営業が主体だったが,その流通量の減少とともに公儀灰吹銀を吹立て,分一銀(鋳造手数料)をとる方式にかわった。留守居年寄衆支配,のち勘定奉行支配となった。1800年(寛政12)の銀座改革によって銀貨鋳造は江戸に集中され,長崎銀座は廃止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…安土桃山時代には豊臣秀吉が各種の金銀貨を鋳造し,これを軍資金とした。 江戸時代には徳川家康が1601年(慶長6)に幣制を統一し,金座・銀座・銭座を設けて金銀銭貨を鋳造し,この三貨を全国通用の正貨とした。金貨には大判(10両)・5両判・小判(1両)・2分金・1分金・2朱金・1朱金があり,銀貨には秤量貨幣の丁銀・豆板銀(小玉銀・小粒銀)のほか,定位銀貨として5匁銀・1分銀・2朱銀・1朱銀が造られた。…
…極印を打ち品位を保証した判金は,すでに15世紀に貿易金として現れ,やがて戦国大名中に鋳造するものもあったが,京都,堺,奈良などに判金,極印銀を鋳造し,両替,秤量,吹替などを営む業者が現れた。16世紀末には地方にも同種の業者が出て,彼らを金屋(かねや),銀屋,天秤屋などと呼び,領主から特権を受けたものが銀座・天秤座である。判金は品位を保証した秤量貨幣で,このほか竿金,延金,玉金など形状によって呼ばれた製錬したままの金も取引された。…
…また近世初期の武鑑類を見ると,世俗では金座と大判座とがまだ判然とは区別されていないことがわかる。1695年(元禄8)の金銀改鋳にさいしては,本郷霊雲寺付近の大根畑(本郷金助町)に改鋳工場が設けられて,この総囲いの中で金銀座一団となって作業が行われた。98年になると,改鋳工場は引き払われて本町一丁目の後藤の邸内に移された。…
…近世前期の豪商。銀座の設立者。号は道勘,名は利方,勘兵衛は通称。…
…江戸時代の銀座にあって,銀吹極め並びに銀改め役を務めた家の初代。銀座役所は銀貨鋳造のいっさいを管理し,常是は吹所(ふきどころ)をもっていて,銀貨鋳造の作業に従った。…
…大坂平野郷の豪家末吉の一統で,朱印船貿易家,銀座頭役,それに摂津国平野の代官職を務めた。父は末吉藤右衛門の三男次郎兵衛(長成)といい,その次男が藤次郎(正貞)で姓を平野と改めた。…
…これが日本におけるガス灯の初めである。同じ年,東京でも府知事の由利公正によってガス灯を新吉原遊郭内に試用しようとする企てがなされたが,これは実施をみずに終わり,73年の銀座れんが街の建設に伴って,ようやくガス街灯の建設が実現した。東京会議所は西村勝三,ペレゲレンらをして建設事業にあたらせたが,翌74年7月から街灯建設が行われ,同年12月18日はじめて京橋と金杉橋の間に85基のガス街灯が点火された。…
…さらに政府は諸外国に対して東京の開市を宣言し,東京が商業(貿易)都市ではなく,首都つまり政治都市として発足する方針をとった。明治初期の東京では,欧米諸国の要請により,1867年(慶応3)に幕府が指定した築地居留地が整備され,72年2月銀座・築地地区の大火後,この地区に煉瓦造の洋風市街地が建設され,大通りの道幅も広げられた。同年9月,新橋~横浜間に開通した鉄道(現,東海道本線の一部)は,首都の表玄関と日本最大の開港場とを連結した。…
…しかし,中世の都市や近世の城下町などでは,寺院・神社の境内や参道に並木があり,郊外の名所に桜並木などがあるものの,中心部の街路沿いに並木がつくられた例はないようである。1872年(明治5)の東京築地一帯の大火後の銀座煉瓦街建設にともない,銀座大通り両側に松,桜,楓(かえで),柳などが植えられたのが,近代日本の都市景観を整える街路樹としての並木の早い例で,以後,各地の都市の主要街路に並木が見られるようになった。銀座大通りの並木は,その後,明治中ごろに全部柳となり,銀座が繁華街となるにつれ名物となるが,1921年の歩道幅縮小の際に引き抜かれて銀杏(いちよう)並木に変わる。…
※「銀座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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