広済寺跡(読み)こうさいじあと

日本歴史地名大系 「広済寺跡」の解説

広済寺跡
こうさいじあと

[現在地名]伊集院町郡

神之かみの川の北岸にあった臨済宗寺院。「伊集院由緒記」によれば、正平一八年(一三六三)に伊集院(島津)忠国が七男南仲に開かせて伊集院内古城ふるじよう村に創建した円勝えんしよう寺を前身とし、伊集院一族の外護が厚く、一族没落後も島津氏の護持を受けた。なお南仲は師の京都南禅寺蒙山智明勧請開山とした。同年忠国は満家みついえ院内小山田おやまだ中俣なかまた(現鹿児島市)の水田五町と園九ヵ所を円勝寺に寄進している(同年五月六日「伊集院忠国外三名連署寄進書下」伊集院氏系図)。智明はのち泰定広済禅師の勅号を得たので泰定山広済寺と改称したといい、応安六年(一三七三)八月一七日の伊集院観了安堵状(同系図)に「広済寺」とみえ、竜泉りゆうせん庵開山の懐聞が同庵領を当寺景周に譲与したことを受けてこれを安堵している。応永三年(一三九六)一月一一日には伊集院一族の有屋田有久らが亡父景雲追善のため伊集院折原おりわら名内の二町二反、園・山野などを寄進し(「有屋田有久・清久連署寄進状」旧記雑録)、同年一二月二六日、伊集院久勝が養父母了念・真光追善のため伊集院大田おおた名内松脇まつわき五反ほかを寄進している(「伊集院頼久・久勝連署寄進状」伊集院氏系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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