郡村(読み)ぐんそん

精選版 日本国語大辞典 「郡村」の意味・読み・例文・類語

ぐん‐そん【郡村】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 郡と村。
  3. いなか。地方。
    1. [初出の実例]「其他郡村の間には、種々の国語を以て村落をなせる所少からず」(出典:米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉一)

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日本歴史地名大系 「郡村」の解説

郡村
こおりむら

[現在地名]右京区西京極にしきようごく畔勝あぜかつ町・午塚うまづか町・葛野かどの町・北大入きたおおいり町・北衣手きたころもで町・ごおり町・郡猪馬場ごおりいのばば町・郡沢ごおりさわ町・郡醍醐田ごおりだいごでん町・新田しんでん町・新明しんめい町・つつみ町・堤外つつみそと町・西衣手にしころもで町・西団子田にしだんごでん町・野田のだ町・はまもと町・東衣手ひがしころもで町・南大入みなみおおいり町〉

東南は川勝寺せんしようじ村、南は徳大寺とくだいじ村の飛地、西北は東梅津ひがしうめづ、北東は天神てんじん川を境に西院さいいん、西はかつら川で下桂しもかつら(現西京区)の各村に接する。

平安京の条坊では、村の東部が右京六条四坊の西南と七条四坊の西北にかかり、村域やや東寄りを西京極大路が通る。

明応四年(一四九五)八月西岡にしのおか五ヵ庄が桂川の用水取入をめぐる相論に関して提出した桂川用水差図案に、桂川から用水を引く庄郷一七ヵ所の一として「郡」が記される。「言継卿記」天文二年(一五三三)一二月二五日条には、「日蓮衆今朝西辺土、さいゐ(西院)、山ノ中、郡、梅津、河端其外十一村放火、云々、言語道断事也」とあり、丹波より攻上った細川晴国が細川晴元や法華宗徒と交戦し、法華宗徒により当地は焼かれている。「長享年後畿内兵乱記」の天文二一年(一五五二)一一月二八日条には三好長慶との争いに破れた細川晴元の回復運動を記して「晴元士卒自丹波小持山口諸兵、郡西院城破却」の記事がある。


郡村
こおりむら

[現在地名]寝屋川市菅相塚かんそうづか町・香里こうり北之きたの町・しん町・西之にしの町・本通ほんどおり町・南之みなみの町〉・郡元こおりもと町・寿ことぶき町・末広すえひろ町・成田なりた町・日新につしん町・東香里園ひがしこうりえん町・松屋まつや

茨田まんだ郡に属し、木屋こや村の東にある。中央を天井川化したまえ川が南流し右岸堤防を枚方ひらかた(河内街道)が通る。東部は枚方丘陵南部の丘陵地で西部は平坦地。北接する中振なかぶり(現枚方市)との境界にある菅相塚は、古墳とも、また菅原道真が大宰府へ向かう途中、都への名残を惜しんで登った丘とも伝える。集落は枚方道沿いの丘陵地西側の山麓斜面にある。同街道に近い字御所山ごしよやまは古代の茨田郡衙跡と推定されるところで、郡の地名はこれに由来するという(寝屋川市誌)。また同所は畠山義豊自刃の地と伝えられ、その墓があったが、昭和三二年(一九五七)成田西なりたにし町の真言宗智山派成田山明王みようおう院の庭園に移された。中世郡庄の地。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高五七二石余、小物成として葭年貢米六斗余。


郡村
こおりむら

[現在地名]頴娃町郡

現頴娃町の南東端に位置し、北西は牧之内まきのうち村、東は今和泉いまいずみ池田いけだ(現指宿市)、南東は仙田せんた村・十町じつちよう(現開聞町)、南西は海に臨む。頴娃郷の中心として地頭仮屋が置かれ、麓と野町が形成されていた。十町村との境に長崎ながさき浦があり、北部に大野おおの(四六五・九メートル)がそびえる。庄屋役所は大窪おおくぼにあった。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高一千三一四石余。元禄一一年(一六九八)の頴娃村里改帳(県立図書館蔵)では高一千二一三石余、衆中人躰一一七、衆中屋敷持一三九、竈数は衆中一七五(うち家来一八)・百姓九四・長崎浦一二・野町一七。


郡村
こおりむら

[現在地名]藤枝市郡一丁目・郡・城南じようなん二―三丁目・立花たちばな一―三丁目・田中たなか一―三丁目・本町ほんまち一―四丁目・大手おおて一―二丁目

東海道藤枝宿の南、長楽寺ちようらくじ村の東に位置し、益津ましづ郡に属する。当村の一部は藤枝宿の白子しろこ町・下伝馬しもでんま町・左車さぐるま町の一部を形成し、村には庄屋、各町には年寄が置かれた。「駿河志料」に「往古小府にて、郡領の住せし地なり、故に小府里と称せしならん」とみえ、益頭ましず郡の中心地であったことを記しており、地内の郡遺跡は益頭郡衙跡推定地とされる。永禄一二年(一五六九)正月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)臨済りんざい(現静岡市)の塔頭常修院領として「代方藤枝郡之夫銭拾三貫文」とみえる。


郡村
こおりむら

大村の北にあり、郡川が流れる。古代に郡家が置かれたことに由来する地名とされ、郡七山十坊という寺院群があったという。中世は郡などとみえる。一五八一年(天正九年)当時、郡Curiにレジデンシアが置かれ、パードレ一人(クリストヴァン・リアン)・イルマン一人(シンジ・アレイショ)が駐在していた。長崎路筋に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。江戸時代は大村藩領で、地方じかた地区に属する。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に郡村とみえ、高四千六二石余で、田二八二町五反余・畠一〇二町余、物成二千二三四石余。同一七年の総検地で高五千四六八石余となるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は四千六二石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図でも高四千九二石余。


郡村
こおりむら

[現在地名]岡山市郡

北浦きたうら村の西、北は児島湾に面する。古代児島郡の郡家の地とされ、村名の起りといわれる。村内に西小路にしこうじ・東小路・南小路などの地名が残る。藤戸ふじとの瀬戸が航行可能な時代には内海航路の主要港であったと思われる。治承四年(一一八〇)三月の「高倉院厳嶋御幸記」二三日条に記す高倉上皇一行の宿泊地「びぜんのくにこじまのとまり」は、一説では当地に比定される。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によると、鉄や米を積んだ当地からの船が兵庫北関へ入津している。天正九年(一五八一)二月一五日の穂田元清書状(萩藩閥閲録)によれば、毛利氏と宇喜多氏の対立の渦中にあった。慶長七年(一六〇二)常山つねやま(現玉野市)城付地として、小早川秀秋より伊岐遠江守に与えられた地に「郡浦」五五六石余がある(「知行方目録」吉川家文書)


郡村
こおりむら

[現在地名]土成町郡

成当なりとう村・土成村の南、九頭宇谷くずうだに川を中心とする複合扇状地の扇端部に位置。南部は吉野川の氾濫原で、同川の支流善入寺ぜんにゆうじ川が東流する。阿波郡に属し、東は柿原かきのはら(現吉野町)、南は知恵島ちえじま(現鴨島町)、西は伊月いつき(現市場町)、成当村。北部を撫養むや街道が東西に通る。古代には阿波郡の郡衙が置かれたと推定され、南北朝期には国衙領として郡原こおりはらと称されていたとみられる。戦国期には郡城が築かれた(城跡記)

天正一三年(一五八五)蜂須賀氏阿波入国後、蜂須賀家政は阿波九城に加えて郡城に秋本氏を配し、鉄砲の者三〇人を付けたという(阿淡年表秘録)


郡村
こおりむら

[現在地名]五箇村郡

現五箇村のほぼ中央に位置し、当地で重栖おもす川・郡川・小路こうじ川・山田やまだ川・那久路なぐち川などが合流する。地名は古代に郡家が置かれていたことに由来するという。犬町いぬまち落合おちあい本郷ほんごう一宮いつく羽浦はうらなどの地区があり、うち一宮は独立した村としてもみえる。慶長一二年(一六〇七)の越智郡検地帳に郡村とみえ、牧上畑の石盛は四斗代(島根県史)。寛永一五年(一六三八)の一宮大明神社領書上(忌部家文書)に村名がみえ、当村など三村内三〇石が水若酢みずわかす神社領となっている。


郡村
こおりむら

[現在地名]佐多町郡

馬籠まごめ村の東に位置し、南東は海に面する。浦として間泊まどまり浦・竹之たけの浦があり、浜尻はまじりと塩屋(所在地不明)は半浦であった。集落として木屋川内こやかわうち折山おりやま松山まつやま岩下いわした立切たちきり永江ながえふもと溝端みぞはた川田原かわたばる針山はりやま・浜尻などがある。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高六二七石余。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高九一五石余。旧高旧領取調帳では高九一〇石余。


郡村
こおりむら

[現在地名]神崎町郡・四季の丘しきのおか

いま村の南にあり、銚子道が通る。古代の香取郡家の所在地とする説がある。中世は神崎庄に属し、正元元年(一二五九)一二月一三日の左衛門尉師時証文(神崎神社文書)に「神崎大□□(明神カ)御領庄内」として郡郷とみえる。翌二年三月一〇日の左衛門尉師時配分状(同文書)に庄内に配分された神崎大明神御領田数三六町・畠四町九段の内としてみえる「惣領分 十三町五段 畠壱町 社人屋敷七ケ所 供僧屋敷四ケ所」は当郷にかかわるか。また建治二年(一二七六)五月六日の某下文(同文書)にみえる神崎大明神御領庄内四郷村々の内の一郷か。


郡村
こおりむら

[現在地名]仁多町郡村

上三所かみみところ村の東に位置し、二つの大きい谷間の接する盆地に立地する。仁多郡家があった地とされ、郡司大領蝮部臣が住したという(出雲国風土記)。地内のカネツキめん遺跡は郡家となんらかのかかわりがあると考えられる。建武三年(一三三六)五月一〇日の頼源寄進状写(高田寺根元録)によると、三所郷地頭・鰐淵がくえん寺長吏頼源は高田たかた寺聖乗に対し「郡村大領原田」一貫八〇〇文の地などを大領権現祭料として寄進している。


郡村
こおりむら

[現在地名]知覧町郡

現知覧町の北部、西流するふもと川の流域に位置し、北は厚地あつち村、南は永里ながさと村。小盆地状を呈し、東になか(四二四・五メートル)ははヶ岳(五一七メートル)がそびえる。知覧郷の領主仮屋および麓集落がある。「三州御治世要覧」に京竿(文禄検地)の節に厚地村を合併し、のちに分村したとある。村名は古代の河辺郡衙の存在を示唆するものと考えられる。中世は知覧院に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高一千七八七石余(厚地村を含む)


郡村
こおりむら

[現在地名]茨木市郡一―五丁目・郡山こおりやま二丁目・上郡かみごおり一―二丁目・下井しもい町・上野うえの町・宿川原しゆくがはら町・五日市緑いつかいちみどり町・上穂積かみほづみ四丁目

上野村の西、千里丘陵東端にある。東を茨木川が流れ、亀山かめやま街道が村内を縦断し、街道沿いに集落が展開する。村名は島下しましも郡衙があったことによるともいう。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図にみえる「小堀村」にあたる。江戸時代中頃まで上野村と一括して把握されたと思われる(→上野村


郡村
こおりむら

[現在地名]勝山市郡町・郡町一―二丁目・長山ながやま町二丁目・芳野よしの町二丁目・さかえ町五丁目・ほん町四丁目・村岡むろこ町郡

村岡山西麓、浄土寺じようどじ川と暮見くれみ川とによる扇状地に位置し、北は五本寺ごほんじ村、南は勝山城下さわ町。村名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)にみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。慶長一一年頃の越前国絵図に「郡村組」として高九五九・九六石が記される。この石高は正保郷帳記載の郡村と猿倉さるくら村の村高合計に一致するので、両村は当時一組となっていたものと推定される。


郡村
こおりむら

[現在地名]伊集院町郡

徳重とくしげ村の東に位置する。神之かみの川が東寄りを南西流し、流域に水田地帯が広がる。同川北岸の標高一五〇メートル前後の丘陵の麓に主集落がある。徳重村から麦生田むぎうだ村を経て吉田よしだ(現吉田町)へ至る道が通る。「島津国史」建武四年(一三三七)九月一四日条によれば、南朝方の伊集院(島津)忠国が市来いちき(現市来町)救援に押寄せた際、北朝方の孫の頼久と「伊集院郡本」で戦ったという。この郡本こおりもとを当地に比定する説がある。地内には正平一八年(一三六三)忠国が建立した広済こうさい寺があった。なお地内宮脇みやわきにある九玉くたま神社一帯は、古代日置郡の郡衙の所在地ではないかと推定されている。永禄一三年(一五七〇)頃広済寺住持雪心が島津義久の使者として琉球国に渡った際、金二枚を差出し、帰国後賞として義久から伊集院下野守久治が領していた「郡村之内込原之門公田二町」を与えられたという(慶長二〇年「友野甲斐守入道元真申状写」友野文書)


郡村
こおりむら

[現在地名]君津市郡

杉谷すぎやつ村の南に位置する。永禄二年(一五五九)の北条氏所領役帳に「西上総 氷郷」とみえるのは当地と考えられ、河越衆の加藤太郎左衛門が当郷の二〇〇貫文を知行していた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七七〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では三卿の清水領と旗本水野領・同玉虫領。旧高旧領取調帳では幕府領と玉虫・水野の二家領。宝暦一三年(一七六三)五ヵ村用水組合に参加(君津町誌)。曹洞宗地福じふく寺・真言宗智山派正福しようふく寺がある。


郡村
こおりむら

[現在地名]福井市郡町

日野川が九頭竜くずりゆう川と合流する付近、九頭竜川南岸に位置し、古くから対岸河合かわい庄との間の渡河集落として発達したらしい。南は黒丸くろまる村に接する。福井藩領。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「舟橋川南四番」の地に含まれたと思われる。

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