広瀬治助(読み)ひろせじすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬治助」の意味・わかりやすい解説

広瀬治助
ひろせじすけ
(1822―1896)

染色家。縮緬(ちりめん)に「写し友禅」の技法適応を創案した。屋号備後(びんご)屋で、備治通称し、友禅業を営んでいたが、明治になり京都に設立された舎密(せいみ)局に出入りし、人造染料用法を研究の結果、1879年(明治12)その色糊(いろのり)を用いて縮緬に捺染(なっせん)し、蒸し、水洗いして仕上げる「写し染め」「写し友禅」に成功した。また一説ではモスリン友禅からの応用ともいわれる。この方法により容易に多量の染め出しができるため原価を節減することができ、品質もまた優れているため大いに好評を博した。現在、友禅の多くは写し友禅によっており、手描き友禅と区別している。

[角山幸洋]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広瀬治助」の解説

広瀬治助 ひろせ-じすけ

1822-1890 幕末-明治時代の染色家。
文政5年1月1日生まれ。友禅業をいとなみ,手描き友禅で知られたが,明治12年縮緬(ちりめん)の染色に写し糊をもちい「写し染」「写し友禅」に成功,型友禅発展基礎をつくった。明治23年4月6日死去。69歳。京都出身。通称は備治。屋号は備後屋。

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世界大百科事典(旧版)内の広瀬治助の言及

【染色】より

…当時扱われた合成染料は紫粉(メチルバイオレット),紅粉(マゼンタ),紺粉(ソルブルブルー)にすぎなかったが,天然染料に比べて扱いがはるかに容易であったから,しだいに利用者が増え,また染料の種類も増加していった。合成染料を利用して色糊をつくり,それを型友禅に応用したのが広瀬治助(通称,備治)で,これによった友禅を加茂川染あるいは加茂川友禅と呼んだ。78年には西村総左衛門(千総,1855‐1935)によって,ビロードの上に友禅染を行ったビロード友禅が世に出た。…

【友禅】より

…これによって型を用いた写し友禅(型友禅)が発明された。すなわち染料を加えた色糊で型を摺(す)る技法で,考案者は友禅染工広瀬治助(屋号の備後屋から備治(びんじ)と通称)である。友禅染の中興として彼の存在は大きな意義がある。…

※「広瀬治助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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