広瀬藩(読み)ひろせはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬藩」の意味・わかりやすい解説

広瀬藩
ひろせはん

出雲(いずも)国能義(のぎ)郡広瀬(島根県安来(やすぎ)市広瀬町)に松江藩支藩として置かれた家門(かもん)小藩。1666年(寛文6)松江藩主松平直政(なおまさ)の二男近栄(ちかよし)が兄綱隆(つなたか)より新田3万石を分与されて成立。当初は松江藩からの蔵米(くらまい)支給であったが、1684年(貞享1)能義郡のうち32か村、飯石(いいし)郡のうち24か村の封地が与えられた。その間1682年(天和2)越後(えちご)騒動に連座、半知(はんち)召し上げで1万5000石となったが、1694年(元禄7)までに元の3万石に復した。居所は陣屋だが、幕末には城主格となった。藩政はおおむね宗藩(そうはん)である松江藩に準じていた。1871年(明治4)廃藩、藩領は広瀬県となり、のち島根県に合併された。

松尾 寿]

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デジタル大辞泉プラス 「広瀬藩」の解説

広瀬藩

出雲国、広瀬(現:島根県安来市)を本拠地とした藩。松江藩主・松平直政の次男、近栄(ちかよし)が、兄の綱隆(つなたか)から3万石の分知を受け、同藩の支藩として成立。

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世界大百科事典(旧版)内の広瀬藩の言及

【出雲国】より

…出雲国の郡別では,島根郡50村2万2490石余,秋鹿(あいか)郡14村1万1708石余,楯縫郡15村1万2454石余,出雲(しゆつと)郡24村1万7802石余,神門(かんど)郡76村4万6135石余,飯石(いいし)郡29村2万6653石余,仁多郡43村1万6464石余,能義郡43村3万9037石余,大原郡58村3万0314石余,意宇郡36村2万9594石余で,合計すると388村25万2654石余となる。なお,66年(寛文6)初代松平直政の次男近栄に新田3万石を分けて広瀬藩を,三男隆政に新田1万石で母里(もり)藩を分家した。分封当初は蔵米支給であったが,84年(貞享1)から広瀬藩には能義郡のうち32村と飯石郡のうち24村を,母里藩には能義郡のうち17村を分割支配させた。…

【広瀬[町]】より

…戦国時代は尼子氏が築いた富田(とだ)城(月山(がつさん)城)の城下町として栄え,慶長期(1596‐1615)に松江に城が移るまで,出雲国の政治・経済の中心地であった。1666年(寛文6)松江支藩の広瀬藩3万石(松平氏)の陣屋が置かれたが,同年の大洪水で富田川(飯梨川支流)の川筋が変わり,旧城下はすべて河床に沈んだため,市街は富田川の西に新たにつくられた。なお1973年,富田川の河床から近世初めの城下町の遺構が発見されている。…

【松江藩】より

…公称表高は18万石余であったが,実際の内高は25万石,32万石の記録もある。藩域は出雲国全体にわたり,能義,意宇,仁多,大原,飯石,出雲,神門,秋鹿,楯縫,島根の10郡であったが,1666年(寛文6)広瀬藩,母里(もり)藩の分封により,84年(貞享1)からは飯石郡24ヵ村,能義郡32ヵ村を広瀬藩領に,能義郡17ヵ村を母里藩領に分割した。松江藩はその初期から財政難に直面させられ,検地,新田開発,殖産興業などの収入増加策や,倹約令,半知などの経費節減を繰り返してきたが,1747年(延享4)6代宗衍(むねのぶ)は小田切備中とともに,積極的な殖産興業政策を主軸にした改革を実施した。…

※「広瀬藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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