日本大百科全書(ニッポニカ) 「延暦寺焼打」の意味・わかりやすい解説
延暦寺焼打
えんりゃくじやきうち
1571年(元亀2)9月、織田信長が比叡山(ひえいざん)の延暦寺を焼き払った事件。1570年4月、浅井長政(あさいながまさ)は信長に反旗を翻して朝倉義景(あさくらよしかげ)と連合した。浅井・朝倉軍は6月姉川(あねがわ)の戦いで一時敗退したが、9月には織田信治(のぶはる)を敗死させ、のち比叡山にこもり、叡山もこれを庇護(ひご)、信長と対決の構えをみせた。一方、本願寺(ほんがんじ)顕如(けんにょ)による蜂起(ほうき)の指令を受けた伊勢長島(いせながしま)の一向一揆(いっこういっき)が11月に信長の弟信興(のぶおき)を殺し、翌71年5月になっても抗戦していた。このような危機的な状況のなかで9月12日、信長は一気に比叡山に攻撃をしかけ、根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとする堂塔伽藍(がらん)のすべてを焼き払い、数千名の僧俗男女を皆殺しにした。この事件は、信長が、古代以来鎮護国家の霊場として人々に君臨してきた叡山の伝統的権威を一挙に解体することで反信長勢による総包囲という窮地を打開し、新しい権力者としての自己の姿を誇示しようとしたものであると考えられる。
[奈倉哲三]
『永原慶二著『日本の歴史14』(1975・小学館)』