根本中堂(読み)こんぽんちゅうどう

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

根本中堂

天台宗の開祖最澄が788年に創建し、自ら刻んだ薬師如来像を安置。1571年に織田信長の焼き打ちで焼失した。徳川家光が8年かけて1642年に現在の姿に再建。創建以来1200年ともり続ける「不滅の法灯」は、焼き打ち前に分灯されていた火が移され、僧侶が毎日油を足すなどしてともり続ける。

(2014-08-16 朝日新聞 夕刊 2社会)

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デジタル大辞泉の解説

こんぽん‐ちゅうどう〔‐チユウダウ〕【根本中堂】

比叡山(ひえいざん)東塔にある、延暦寺(えんりゃくじ)本堂最澄が延暦7年(788)に創建した一乗止観院前身。現在のものは寛永17年(1640)の再建。国宝
[補説]天台宗寺院では、本堂にあたる建物を「根本中堂」と自称するところもある。寛永寺立石寺など。

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大辞林 第三版の解説

こんぽんちゅうどう【根本中堂】

比叡山東塔にあり、延暦寺の中心となる建物。788年最澄の開創。現在の堂宇は寛永年間(1624~1644)の再建。一乗止観院。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

根本中堂
こんぽんちゅうどう

比叡山(ひえいざん)東塔にある延暦寺(えんりゃくじ)の中心道場。もとは最澄(さいちょう)が創建した一乗止観院(いちじょうしかんいん)で、薬師堂を中心に文殊堂(もんじゅどう)と経蔵(きょうぞう)が東面して一線に並んだものであったが、円珍(えんちん)が882年(元慶6)に三堂を九門四面の一堂に収め(一堂三隔)、薬師堂を中堂と称したのが現在の原型である。現在の中堂(国宝)は、織田信長の焼打ち後に徳川家光(いえみつ)が再建したものであり、その構造は単層入母屋造(いりもやづくり)の堂の前庭を回廊で取り巻き、修法する内陣は3メートル低い石畳、天皇(勅使)の座である外陣(げじん)は一段高い床張りという独自の形式である。秘仏の薬師如来厨子(やくしにょらいずし)の前には、元亀法難(げんきほうなん)(1571)の際に山形県の立石寺(りっしゃくじ)に移されてあった不滅の法灯(灯明)が1000余年の伝灯を伝えている。滋賀県大津市坂本本町。[塩入良道]

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世界大百科事典内の根本中堂の言及

【延暦寺】より

…しかし,室町時代以降,荘園制の衰退とともに寺運もしだいにおとろえ,1571年(元亀2)の織田信長の延暦寺焼打によって山門の世俗的権勢は武家政権の前に屈した。その後豊臣,徳川2氏が寺領を寄進して諸堂の復興を助け,1636年(寛永13)には根本中堂の復興が成り,しだいに旧観に復した。園城寺日吉大社
[堂塔]
 近江,山城2国にわたる広大な山上の寺域は三塔(東塔,西塔,横川(よかわ)),十六谷に分かれる。…

【延暦寺】より

…しかし,室町時代以降,荘園制の衰退とともに寺運もしだいにおとろえ,1571年(元亀2)の織田信長の延暦寺焼打によって山門の世俗的権勢は武家政権の前に屈した。その後豊臣,徳川2氏が寺領を寄進して諸堂の復興を助け,1636年(寛永13)には根本中堂の復興が成り,しだいに旧観に復した。園城寺日吉大社
[堂塔]
 近江,山城2国にわたる広大な山上の寺域は三塔(東塔,西塔,横川(よかわ)),十六谷に分かれる。…

【延暦寺焼打】より

…1571年(元亀2)9月12日,織田信長が比叡山延暦寺の根本中堂,山王二十一社をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払った事件。前年9月,三好三人衆,本願寺顕如に呼応して南近江に兵を進めた浅井・朝倉軍の一部は叡山に拠って信長に対抗した。…

※「根本中堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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