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朝倉義景 あさくらよしかげ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朝倉義景
あさくらよしかげ

[生]天文2(1533).越前
[没]天正1(1573).8.20. 越前
戦国大名。孝景の子。初め孫次郎延景と称し,天文 21 (1552) 年将軍足利義輝の偏諱を得て義景。同 17年父の死により跡を継ぎ一乗谷城主。加賀,能登,越前の一向一揆と戦ったが,義輝の命によりこれと和し越前を平定。

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デジタル大辞泉の解説

あさくら‐よしかげ【朝倉義景】

[1533~1573]戦国時代の武将。元亀元年(1570)浅井氏とともに、近江(おうみ)姉川で織田信長と戦って敗れ、のち、居城一乗谷で自刃。

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百科事典マイペディアの解説

朝倉義景【あさくらよしかげ】

戦国時代の越前の武将。孝景の子。初め延景,1552年将軍足利義輝から義の字を与えられ義景を名乗る。初めは父祖の代から続く加賀の一向一揆との争いに明け暮れた。1568年義輝が松永久秀に殺されると,義輝の弟義昭は義景を頼って越前に入った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

朝倉義景 あさくら-よしかげ

1533-1573 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)2年9月24日生まれ。朝倉孝景(たかかげ)(孫次郎)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。本願寺と和解し,浅井長政とむすんで織田信長に対抗したが,姉川の戦いに敗れ,天正(てんしょう)元年8月20日自害し,朝倉氏はほろんだ。41歳。初名は延景。通称は孫次郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

朝倉義景

没年:天正1.8.22(1573.9.18)
生年:天文2(1533)
越前(福井県)の戦国大名。孝景(貞景の子)の子。初め孫次郎延景と名乗り,天文21(1552)年将軍足利義輝に諱の1字をもらい左衛門督義景と改める。同17年父の死により家督を継ぐ。弘治1(1555)年一族の重鎮宗滴,ついで景隆を加賀(石川県)に送って一向一揆を攻めたが,翌年義輝の斡旋で和睦した。義輝が死ぬとその弟一乗院覚慶が還俗して義秋と名乗り,永禄9(1566)年義景を頼って越前に来た。翌年,加賀一揆を背景に越前の有力国人堀江景忠が反乱を起こすが,義秋の仲介で講和が結ばれ,朝倉氏と本願寺はのち義景の娘と教如の婚約により盟約を固めた。同11年義秋は一乗谷(福井市)で元服して義昭と名乗ったが,その年のうちに織田信長のもとに去り,信長に奉じられて上洛した。 信長は諸将にも上洛を命じたが,義景がこれに応じなかったため,元亀1(1570)年4月,若狭(福井県)から越前に侵攻し敦賀を占拠した。このときは北近江(滋賀県)の浅井氏が信長との盟約を破って朝倉方に呼応したため,かろうじて信長は撤兵した。同年9月,挙兵した本願寺を信長が囲むと,義景は浅井氏と共に南近江に出陣してこれを牽制。同3年信長は小谷城(滋賀県湖北町)に浅井氏を攻め,義景は救援のため出陣して信長軍と対峙するが,12月突然越前に帰国し,同盟関係にあった武田信玄や本願寺の非難を浴びた。翌年義昭を追放した信長が浅井攻めを再開すると,義景は再び近江に出陣したがかえって敗れ,撤退の途次刀禰坂(敦賀市)の合戦で大敗を喫し,その際多くの重臣が寝返った。8月16日一乗谷に帰った義景は,従弟景鏡 の勧めで大野郡に退き再起を図るが,頼みの平泉寺が応じず景鏡にも裏切られたため,六坊賢松寺で自害した。菩提寺心月寺(福井市)に画像が残る。連歌,和歌,絵画に才能を発揮し,永禄5年大覚寺義俊を招いて曲水宴を催す文化人でもあった。<参考文献>『蓮如/一向一揆』(日本思想大系7巻),水藤真『朝倉義景

(河村昭一)

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世界大百科事典 第2版の解説

あさくらよしかげ【朝倉義景】

1533‐73(天文2‐天正1)
越前の戦国大名。孝景の子,母は隣国若狭武田氏の娘。1548年父孝景の死により16歳で領国支配を受け継ぐ。はじめ孫次郎延景,52年,将軍足利義輝の偏諱(へんき)を受け左衛門督義景と名のる。当初,越後の上杉謙信攻守同盟を結び,加賀一向一揆の挟撃をもくろみ,何度も加賀に出陣。65年(永禄8)将軍義輝が松永久秀に殺されると,弟の義昭を一乗谷に迎え入れ,松永と対抗。しかし義昭を奉じて上洛する意志がないため,68年,義昭は織田信長とともに上洛。

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大辞林 第三版の解説

あさくらよしかげ【朝倉義景】

1533~1573) 戦国大名。孝景たかかげの子。初名延景。織田信長としばしば交戦、姉川の戦いで大敗。のち信長に一乗谷を攻撃されて自殺し、朝倉氏は滅亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朝倉義景
あさくらよしかげ
(1533―1573)

戦国大名。初め延景(のぶかげ)。1552年(天文21)将軍義藤(後の義輝(よしてる))の諱(いみな)を受け義景と改める。1555年加賀に出兵したのをはじめ、しばしば加賀一向一揆(いっこういっき)と戦うも勝負を決せず。1565年(永禄8)、足利(あしかが)義輝が松永久秀(ひさひで)に殺されると、その弟義秋(元服して義昭(よしあき))を一乗谷(いちじょうだに)に迎えたが、彼を奉じて上洛(じょうらく)することなく、かえって、1568年義昭を擁して上洛した織田信長の攻撃にさらされる。以後浅井長政(ながまさ)、武田信玄(しんげん)、本願寺などと同盟を結び、1570年(元亀1)から1573年(天正1)までの4年間、姉川の戦いをはじめ、よく信長と戦うが、天正(てんしょう)元年8月刀祢(とね)坂(福井県敦賀(つるが)市刀根(とね))の戦いに敗れ、同20日越前(えちぜん)大野で自刃した。
 信長との対決以前よく領国を統治し、1562年(永禄5)城下で曲水(きょくすい)宴を催し、また義昭を迎えて詩歌の宴を張るなど文化的活動も顕著で、自身も詩歌、画、禅に通じていたが、戦国争乱の激化するなかで新たな領国政策を展開できないまま、守旧的な姿勢のなかに滅亡した。福井市心月(しんげつ)寺に残る画像(国指定重要文化財)は、政治家、武将としてのたくましさよりも、繊細な面もちを伝えている。[水藤 真]
『水藤真著『朝倉義景』(1981・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の朝倉義景の言及

【朝倉氏】より

…越前の戦国大名。はじめ日下部氏。平安末期,但馬国養父郡朝倉に住し,朝倉氏を称した。南北朝時代,広景が足利方の斯波高経に従い越前に転戦し,坂井郡黒丸に住す。代々守護斯波氏の重臣として,中野,松尾,阿波賀,向,三段崎,東郷,中島,北庄,鳥羽の支族を分出。敏景(孝景)のとき,応仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を領し,一乗谷に城を築く。《朝倉孝景条々》は戦国家法として有名。孫の貞景は一向一揆および同族争いを鎮め領国支配を確立。…

【越前国】より

…旧国名。北陸道に属する大国(《延喜式》)。現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
 北陸地方は古くは(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。越は蝦夷経営の前進基地としての政治的役割をもち,589年に阿倍臣を北陸道に遣わし越等の諸国の境を視察させている。また658年(斉明4)および660年,越国守阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)を討っているのも,越の位置づけを物語る(なお,658年は誤りとする説もある)。…

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