戦国時代の浄土真宗の僧。諱(いみな)は光佐,号は信楽院。本願寺第11世。証如の長男。本願寺は証如時代から権勢を強め,戦国大名の注目を集めたが,顕如誕生の翌年には細川晴元から婚約の申入れがあり,後年その養女を六角義賢の猶子として内室に迎えた(如春尼)。1554年(天文23)12歳で法灯を継ぐ。59年(永禄2)には証如時代から望んでいた門跡に列せられ地位の向上をみた。諸大名接近の例としては,北条氏康が上杉景虎との対立から本願寺の援助を望み,相模国内の一向宗禁制を60年ぶりに解除,武田晴信が上杉への牽制のため加賀・越中の門徒の上杉領への侵入を顕如に依頼,六角,浅井,朝倉氏らが織田信長への対抗上領内の一向一揆と結んだこと等があげられる。諸大名の動きに対し顕如は積極的に動くことはなく,信長との間も5000貫の矢銭の納入や品物の贈答など,69年ころまで交渉があった。しかし70年(元亀1)信長が近江・越前へ進攻したころから対立が表面化し,信長からたびたび要求が出され破却が告げられる状態となり,同年9月信長と三好氏の対立を契機として交戦状態に入った。以来北陸,東海,近畿の一向一揆や毛利氏の支援をうけ,武田・上杉とも盟約を結び,11年にわたり信長と対立した(石山本願寺一揆)。信長の越前・近江・伊勢の平定が進み,長島・越前の一向一揆が壊滅した後は,毛利や紀伊の一向一揆が本願寺を支えたが,80年(天正8)朝廷の仲介により和睦が成立。顕如は講和の条件に従い石山本願寺(大坂)を退き和歌山鷺森に本拠を移した。石山に残り再挙を図った長男教如と義絶したが,信長が倒れたあとまもなく和解。83年顕如は和泉貝塚に移ったが,豊臣秀吉によって,大坂天満に寺地が与えられ,85年再び本拠は大坂へ移った。さらに91年(天正19)秀吉から京都へ移転が命じられ,顕如は六条の地を選び秀吉が寺地を寄進,坊舎が建立された。本願寺の復興は秀吉の保護によるところが大きい。
執筆者:内藤 範子
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安土(あづち)桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第11代宗主。諱(いみな)は光佐(こうさ)。天文(てんぶん)12年正月6日に生まれる。父は証如(しょうにょ)(1516―1554)、母は権中納言(ごんちゅうなごん)庭田重親(にわたしげちか)(1495―1533)の女(むすめ)増進院。九条稙通(くじょうたねみち)(1507―1594)の猶子(ゆうし)となる。1554年(天文23)8月12日、石山本願寺で得度し、翌1555年(弘治1)4月法眼(ほうげん)に叙せられる。15歳で細川晴元(ほそかわはるもと)の女と結婚し、1558年(永禄1)長子教如(きょうにょ)を生む。翌1559年、式料貢献の賞として門跡(もんぜき)に補され、本願寺はここに初めて門跡寺院となる。1570年(元亀1)9月、織田信長と対立して諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。しかし同年4月9日、勅命によって和睦(わぼく)し石山本願寺を退出、紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)に移る。合戦時代に顕如が諸方に発給した書状は「顕如上人(しょうにん)文案」に収められ、西本願寺に現存する。信長の死後、1583年7月、本願寺を和泉(いずみ)(大阪府)の貝塚に移したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から大坂天満(てんま)の地を与えられて同年8月に寺基を同地に移す。1591年3月さらに秀吉から京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地がそれである。天正(てんしょう)20年11月24日50歳で没し、諡(おくりな)を信楽院(しんぎょういん)と称する。
[北西 弘 2017年7月19日]
(草野顕之)
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1543.1.6~92.11.24
織豊期の浄土真宗の僧。本願寺11世。幼名は茶々,法名は顕如。諱は光佐(こうさ)。父は10世証如,母は権中納言庭田重親の女。1554年(天文23)得度。59年(永禄2)門跡に列する。70~80年(元亀元~天正8)織田信長との間に石山合戦を展開。正親町(おおぎまち)天皇の仲裁で和議し,石山を退き紀伊国鷺森,ついで和泉国貝塚に移り,85年豊臣秀吉の命により石山に帰る。91年,秀吉から京都堀川七条に寺地を与えられる。顕如の死後,長男教如(きょうにょ)がつぐが,秀吉は三男准如に継職の証状を与えた。しかし徳川家康は教如をとりたて,教如は京都烏丸六条に寺地を得て東本願寺を建立。准如方の西本願寺と分裂した。
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… 1568年(永禄11)入洛した信長は70年石山明渡しを要求し,本願寺はこれを拒絶して緊張は激化していた。同年8月信長は摂津中之島に三好三人衆を攻めたが,その後本願寺を攻撃するとの風聞がしきりとなり,法主顕如は諸国門徒に蜂起を指令し,9月12日に信長を攻めた。本願寺が三好・六角・浅井・朝倉・武田と同盟したため,各地の一揆は彼らと結んで信長と戦った。…
…これらは畿内の流通の結節点となるとともに,そこに集積された富と技術は本願寺の経済的基盤となった。
[第3期――16世紀後半(法主顕如)]
1554年に顕如が11世法主となる。このころになると各地の戦国大名は領国内の一向一揆の蜂起を恐れて,布教を禁止した。…
…そして68年足利義昭を擁して上洛,三好三人衆を追って幕府を再興,実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。…
…天下統一に着手した織田信長がこの地を入手しようと図り,70年(元亀1)本願寺を攻め,石山合戦(石山本願寺一揆)が始まった。80年(天正8)朝廷の斡旋により信長と講和し,11世顕如らは石山本願寺を退去して紀伊国鷺森に寺基を移した。その後83年和泉国貝塚,85年大坂天満(てんま)を経て91年豊臣秀吉の命により京都七条堀川に寺を移した(西本願寺)。…
※「顕如」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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