日本歴史地名大系 「建部庄」の解説
建部庄
たけべのしよう
大治三年(一一二八)近江国司藤原宗兼は、それまでの散在神領に代えて神崎郷一円を近江一宮建部社(現大津市)に寄進、当庄が成立した。当時の庄田は一七一町八反と推定され、院用米三〇〇石のほか他役はない一円神領であった。元暦年中(一一八四―八五)院用米三〇〇石は坂本日吉社に長日供料として寄進された。以後日吉社禰宜が庄務へ介入、建部社と日吉社の間で相論となり、文治二年(一一八六)日吉社の庄務介入停止と庄田の中分を命ずる院宣が下されたという(元亨三年八月六日「官宣旨案」東京大学史料編纂所蔵長元至寛徳度改元勘文紙背文書)。ただしこのとき庄田が実際に両社に中分されたかどうかは不明。現在のところ建部庄の文献上の初見とされている文治二年閏七月二九日付源頼朝下文(尊敬閣文庫所蔵文書)は、日吉社領建部庄への往還の武士の寄宿に伴う違乱・狼藉停止を命じたもので、建部という地域がもつ東国への交通の要衝地としての重要性を物語るともいえる。承久三年(一二二一)七月二二日、執権北条泰時が故右大将殿(頼朝)の事例に任せ建部庄役兵粮米の賦課を免除している(「武蔵守書下」桂林拾葉抄記)。
文治以降もともに庄務権をもつと主張する建部社と日吉社の相論は続き、元亨二年(一三二二)六月、建部社保司宗舜は日吉神主成久が建部庄一円支配を認められたとして庄務を違乱したと訴え、記録所で審理が行われた。その結果、同年一〇月二日、文治二年の院宣に従い両社で中分と決められた。だが成久が下地八五町九反の切渡しを主張、一〇月一三日記録所で再審理が行われ宗舜側は、元永(一一一八―二〇)の国司外題と検田目録等を提出した。この検田目録により成久の要求する八五町九反余が庄田の半分に相当することが判明、再び中分が命じられて、両社の間で下地中分が実行された。このとき建部庄は上庄・下庄に二分されたことになる(以上前出官宣旨案)。元亨三年には宣旨を受けた建部庄中分管領を命じる国宣が発せられた(同年九月一八日「前摂津守某国宣施行状案」東京大学史料編纂所蔵長元至寛徳度改元勘文紙背文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報