弁分村(読み)べんぶむら

日本歴史地名大系 「弁分村」の解説

弁分村
べんぶむら

[現在地名]安岐町朝来あさく

南流して安岐川に合流する朝来野あさくの川の下流左岸に細長く展開し、東は糸永いとなが村、北西久末ひさすえ村、南は矢川やがわ村。豊後国弘安図田帳に「弁府拾町 地頭日田弥三郎永基」とある。開発領主や時期は不明。日田永基が安岐郷弁分の地頭職を得たのは、文永の役の戦功によるといわれる。岩尾いわおに元亨四年(一三二四)銘の板碑宮園みやぞの八坂社に元弘三年(一三三三)の板碑があり、県指定文化財。とうには永和二年(一三七六)の板碑などがある。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高八三三石余、家数八九、うち百姓三八、庭屋・へ屋・牛屋四九、人数二〇五、うち百姓三八・名子一四、牛二七・馬二。正保郷帳では安岐郷に属し、田方四四〇石余・畑方一一七石余で、柴山有・新田有と注記される。天保郷帳では高九一二石余。元禄期(一六八八―一七〇四)庄屋は秋吉氏、安政期(一八五四―六〇)の庄屋は加藤氏(同三年「御領分中庄屋席順帳」久米家文書)


弁分村
べんぶんむら

[現在地名]穂波町弁分

嘉穂盆地のほぼ中央部、穂波川中流域の左岸に位置する。南は椿つばき村、西は明星寺みようじようじ(現飯塚市)。寛正四年(一四六三)四月二九日の大宮司到津公弘袖判信茂奉書(清末文書/嘉穂地方史古代中世篇)によれば、到津いとうづ八幡宮(現北九州市小倉北区)神官清末主計允は給所立岩たていわ成友名(現飯塚市)の代所として「椿弁分定米之内五石」を給与されており、文明二年(一四七〇)と推定される少弐頼忠押領地僉議状案(到津文書/大分県史料一)には「椿弁分一円御神領、宗山城守押妨」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android