中世の石塔の一種。板石塔婆ともいう。埼玉県熊谷市の旧江南町にある嘉禄3年(1227)のものが初見で,南北朝・室町時代に盛んに作られ,17世紀初頭に姿を消す。関東地方のものがもっともよく知られ,また数も多いが,北海道から薩南諸島まで,全国に分布し,地域によって特色のある板碑が造立されている。関東地方のものは,現在までに約3万基が知られ,秩父産の青石(緑泥片岩)で作られ,薄く板状にはがれやすく加工もしやすい,という石材の特色を生かし,頭部を三角形とし,2本の溝状の線を刻み,梵字や画像で主尊の仏を表現するなど,形態的にすぐれ色も美しいものが多く,そのため,江戸時代から文人などに好まれてきた。板碑という名称もこの関東地方の板碑(武蔵型板碑,青石塔婆などともよばれる)にもっともふさわしいもので,東北地方などには,丸い自然石に仏の種子(しゆじ)と銘文が刻まれるだけのものもある。
板碑造立にこめられた信仰は,板碑の主尊や銘に刻まれた経典の一句(偈(げ))から知ることができるが,大半は阿弥陀仏に対する信仰(武蔵型板碑では8割以上)を表明し,偈の出典としては,法華経や浄土三部経から引かれることが多い。中には〈南無妙法蓮華経〉の題目を刻んだ日蓮宗系の板碑,他阿流の書体で〈南無阿弥陀仏〉と名号を刻んだ時宗系の板碑のように宗派のはっきりしたものもあるが,全体からすればごくわずかでしかなく,多くは造立の背景にある信仰が真言・天台系の浄土信仰であろうと推測できるにとどまる。また,その造立の目的には,二親などに対する〈追善供養〉と,自分自身の後生善処を願う〈逆修供養〉との二つがあり,傾向としては,鎌倉期に前者が多く,南北朝・室町期には後者のものが多くみられる。板碑が作られたころ,板碑を何とよんでいたのかはっきりしないが,おそらく特別な名称はなく,石塔,卒塔婆,浮図(ふと)などの供養塔を意味する名称でよばれていたものと考えられる。また,板碑の形態が何を起源にしているかについても諸説があってはっきりしていないが,五輪塔の形態が転化したものとする説がもっとも有力で,また板碑の銘文の中に,その板碑が五輪塔として作られたということを意味する文章が含まれた例もある。
板碑造立者は鎌倉時代には在地領主層がほとんどで,埼玉県入間市円照寺の丹党加治氏造立の一連の板碑,東京都東村山市徳蔵寺の飽間斎藤氏の一族の戦死者供養のためのいわゆる〈元弘の碑〉や,青森県弘前市長勝寺の嘉元4年(1306)銘梵鐘にも名前が見え,御内人と考えられる源光氏の造立による弘前市中別所の正応1年(1288)銘板碑などはその例である。しかし,15世紀後半以降,とくに関東地方では,月待や庚申待などの民俗行事にともなって農民たちが一結衆を構成して造立する供養塔が板碑として作られる例が多くなる。これらの板碑は,その交名(きようみよう)を分析することによって,関東の中世農村の村落結合を知る重要な史料となっている。
板碑は17世紀初頭にはまったく姿を消してしまうが,その理由は一部に言われているような政治的なものではなく,位牌や石碑墓の普及に象徴される中世の村落や宗教の変化といった社会的諸条件の変化にともなったものと考えるべきである。
執筆者:千々和 到
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中世につくられた石塔の一種で板石塔婆(いたいしとうば)ともいう。埼玉県熊谷(くまがや)市須賀広(すがひろ)にある、嘉禄(かろく)3年(1227)銘のものが初見で、南北朝・室町時代にもっとも盛んとなり、17世紀には姿を消す。九州・四国から東北・北海道に至る全国各地に分布するが、関東地方の、秩父(ちちぶ)産の青石(緑泥片岩(りょくでいへんがん))でつくられたものが数も多く、よく知られている。青石は板状にはがれやすく加工もしやすいことから、厚さの薄い石碑状の石に細かな彫刻が施されるなど芸術的にも優れた形のものが多い。板碑という名称は、この石碑状の形から近世末に生じたものであるが、板碑は碑ではなく、両親など亡者の追善供養(くよう)や生きている者の逆修(ぎゃくしゅ)供養のためにつくられた供養塔であり、板碑のつくられた時代には、特別な名称はなく、石塔、卒塔婆(そとば)、浮図(ふと)などと供養塔を意味する名称でよばれていた。また刻まれている銘文も、その亡者などの名や造立趣旨と、経典の一句である偈(げ)と、紀年銘などで、記念碑的な意味の銘は刻まれていない。
板碑の形態は、頭部を三角形にし、2条の溝が刻まれ、梵字(ぼんじ)(種子(しゅじ))や画像で主尊とする仏(阿弥陀(あみだ)、大日(だいにち)、釈迦(しゃか)、地蔵(じぞう)、観音(かんのん)など)を表現し、その下に銘文が刻まれているのが一般で、この形態の起源については諸説があるが、五輪塔の形態が転化したものとする説が現在もっとも有力である。石材は青石のほか、地方によって安山岩、花崗(かこう)岩、凝灰岩などが用いられるが、材質のつごうで厚手もしくは柱状になったものもある。
板碑に込められた信仰は、偈の出典の経典や主尊から知ることができ、関東地方のものは8割まで密教的浄土信仰に基づくとされるが、宗派まで確定することは一般的にはできない。ただ例外的に、鎌倉時代末期以降に多くなる「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と名号を刻む時宗(じしゅう)系と、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と題目を刻む日蓮(にちれん)宗系とは宗派を知ることができる。
板碑の造立者は、鎌倉時代には武蔵(むさし)七党などとよばれるような在地領主層がほとんどであるが、15世紀後半以降、とくに関東地方では、月待(つきまち)や庚申待(こうしんまち)などの民俗行事に伴って農民たちが一結衆を構成して供養塔を造立する例が多くなる。これらの板碑は、その交名(きょうみょう)を分析することによって、東国の中世村落のようすを知ることができる重要な史料である。
板碑は17世紀初頭につくられなくなる。その理由としてさまざまな解釈がなされ、徳川家康の江戸入部に伴う禁止などを指摘する俗説もあるが、そうした政治的理由よりも、位牌(いはい)や石碑墓の普及に象徴されるような、家・村落や仏教の変化など社会的諸条件の変化に伴うものと考えるべきであろう。
[千々和到]
板石塔婆(いたいしとうば)とも。13世紀前半頃から17世紀初頭にかけて造られた石塔の一形式。全国的に分布し,それぞれ地域的特色をもつが,関東地方の青石(あおいし)塔婆は,現在約3万基の存在が知られ,板碑を代表するものとされる。青石塔婆は,板状の緑泥片岩で造られ,頂部を三角形にし,上方から順に2本の横線,梵字,仏の画像などが刻まれている。造立の目的は,両親の供養また自分の後生供養のためで,鎌倉時代に前者が多く,室町時代には後者のものが多い。鎌倉時代は,在地領主層の造立したものが多いが,15世紀以降は,農民の供養塔が多くなる。戦国期の関東の板碑には,私年号で年号を表記したものが多くみられる。
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…五輪塔(図4)は方形の地輪,球形の水輪,宝形造の火輪,半球形の風輪,宝珠形の空輪からなるもので,平安時代から現れ,各輪四方に梵字を彫ったものが多く,最も多くつくられた石塔である。また板碑(いたび)は五重塔の簡略化されたものともみられよう。笠塔婆(図5)は,柱状の塔身に笠石を冠したものをいい,鎌倉時代から遺品がある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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