日本歴史地名大系 「弥生町向ヶ岡遺跡」の解説
弥生町向ヶ岡遺跡
やよいちようむこうがおかいせき
本郷台上、旧向ヶ岡弥生町にあった遺跡で、向ヶ岡弥生町貝塚・向ヶ岡貝塚ともいう。この貝塚は最初の弥生式土器(弥生土器)の出土地として知られる。明治一七年(一八八四)に帝国大学の学生であった有坂蔵・白井光太郎・坪井正五郎らによって発見された。同二二年には坪井によって広く紹介され、同二九年に蒔田鎗次郎によって弥生式土器と命名された。ただし壺形土器を出した貝塚の所在地については諸説ある。江坂輝弥・杉原荘介はかつての向ヶ岡弥生町三番地と推定、同地点は「東京都遺跡地図」(昭和五〇年)では浅野邸内貝塚とある。斎藤忠は東大農学部の構内裏手から、その南側の東京都の拡張道路の辺りと、本部構内の一部とし(「日本の発掘」昭和三八年)、太田博太郎は江坂らの推定地点の北約五〇メートル(「日本歴史」二〇三号・昭和四〇年)、佐藤達夫は東京大学の浅野キャンパス内(「歴史と人物」四六号・昭和五〇年)としている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報